劇中で、二人の人物が会話をしている。その場にはいない主人公に関する話である。彼の行動を指して、ちょっと毒のある批評をしたりしているのだが、まあ悪口を言っているというほどでもない。せいぜい「あの人って、本当におっちょこちょいだね」「落ち着きがないんだよな」というところか。場面が変わって主人公、
「はっくしょん」
と、クシャミを一つ。隣にいた友人に、
「いやあ、誰かかわいい女の子が俺の噂、しているのかな」
などと苦笑いしながら言う。
このようなシチュエーションは、アニメやドラマで、細部を変えながら何度も何度も繰り返し登場していてうんざりするほどだが、それでも何かの必然で主人公の噂話という場面があった場合、必ずといっていいほど噂をされた人物がクシャミをする。舌がもつれていい直すとか、名前を呼び間違えるとか、そういう多くの「普通の生活にはあるがドラマにはない」ことと同じように、クシャミもまた、何の必然もなく劇中の人間がすることはありえないから、逆に登場人物がクシャミをする場合、風邪を引いたか噂話をされているかのどちらかということになる。
それにしても、噂話をされるとクシャミをするという話、こんなに使われてしかるべきほど有名な迷信なのだろうか。迷信といったが、考えてみればそもそもこれは迷信なのである。当たり前だが、誰かが自分の噂をしているということをなんらかの超感覚で捉えてくしゃみを引き起こす能力が人間には備わっているのであるなどとは、よほどの超能力擁護者でさえ言わない。信じている人が誰もいないのに劇中では既定の事実であるように使われているという、かなり妙な現象が見られていることになる。
この、クシャミと噂を結び付けることわざは、地方によって変化があったりするのかもしれないが、私が母から初めてこれを聞いた形では「1ホメ2ソシリ3ワライ」と言った。「謗る」などというあまり使われない言葉が出てくるが、くしゃみが一回なら誉められている、二回なら誹謗中傷を受けている、三回なら笑われている、ということである。母は、癖でいつもクシャミが一回で収まらず、クションハックシュンと二回してしまうのだそうである。だから「いつも謗られている」、と言っていた。
この「1誉め2謗り3笑い」、「喜怒哀楽」の「喜ぶ」と「楽しい」のように、現状では二回と三回は内容にあまり差がないように思える。バラエティを重視するなら「惚れられている」というのを是非入れたいところであるが、まあ、ポジティブ1ネガティブ2という比率は、なにしろ噂話というのは悪い話であることが多いので、うなずけるところではある。なお、4回クシャミをすると、これは風邪らしい。
日本では便利に、あまりにも普遍的に使われている割には、このことわざが全世界で言われているはずはない。例によって中国人の方に聞いたところ、全く知らなかったと言っていた。日本での生活が長いこの人のこと、ドラマやアニメで噂話に呼応してクシャミをする場面を見たことがないはずはないのだが、どうせ大筋には関係無いので、文化的バックグラウンドがないとつい見逃されてしまうものなのだろう。じゃあ、噂をされたらどうなるのか、と聞いたら「耳がカユくなるのだ」と言っていた。それは、なんというか、映像で表現しにくい。
ドラマはともかく、日本のアニメはかなり海外に輸出されていて、外国人の中にも熱心なファンが多いらしいのだが、そういう作品の中にもきっと噂原因のクシャミ場面が多用されているはずである。外国人のアニメファンは、どう思ってこれを見ているのだろうか。あるいは、インターネット上のどこかの海外アニメサイトに、解説とかFAQの形で「なぜこれこれこういう場面でアタルはクシャミをしたのか」というような質問とその答えが出ているかもしれない。「日本では噂話とクシャミの間に神秘的なつながりがあると信じられていて云々」と答えている日本ツウの姿が目に浮かぶようである。
ある時のこと。例によって実験の準備で地下にこもっていた私は、後輩と一緒に作業をしていた。
「これ取り付けてしまうから、そっち持っていて」
「あれですね、でも、どうしてこっちが先じゃないんですか」
「ん、それは」と、そこまで言って私は言葉を止めた。不審げに私の顔を覗き込む後輩。私は顔をそむけて、
「……クシュンッ」
クシャミが出るところだったのである。しかし、鼻のむずむずはまだ止まらない。続けて、
「…クシュッ、フクシュン」
と二度クシャミが出たところでようやく収まった。私は、どういうわけかクシャミをしたあと全身がかき氷を掻き込んだ後の頭のような痛みに襲われることがあるのだが、その時もそうだった。痛みをこらえてやっと言葉を続ける。
「っててて。すまんすまん。そっちの電極にはまだハンダ付けをしてないから」
後輩は、私の返事より、クシャミが気になったらしい。
「えらいクシャミでしたね。よっぽど強烈に噂されているに違いないですよ」
と言った。私は、こいつはいい奴なんだが時々こういう馬鹿なことを言う。まだ若いからなあ、という思いをこめて彼をみつめると、いいからさっさとそっちを持っていろ、と手振りで合図した。と、突然部屋のスピーカーのスイッチが入ったかと思うと、
「ピンポーン。大西さん、大西さん。いらっしゃいましたら内線4967番までご連絡ください。ピンポーン」
とアナウンスを吐き出した。あっ、確かに噂をされている。
あれからずいぶん経つが、その時の後輩の「してやったり」という顔だけは忘れられない。