「ようこそ、私の肩甲骨へ」
私がその部屋の扉を開くと、白髪の老人がそう言って振り返った。どういう反応をするべきだろう、と迷っていると、老人は一つうなずいて、
「うむ。気にするな。やり直しをしよう。もう一度入ってきたまえ」
あっ、やっぱりツッコんで欲しかったんだ、とちょっとした後悔をしながら、私はだまって一礼すると廊下に戻った。扉を閉め、もう一度扉をノックする。まあ、そんなことをしてまで会う価値のある人なのである。老人の名は大西観月。いまや押しも押されもせぬ科学研究所、大西科学を、趣味の天文台、望遠鏡メーカーから一代で作り上げた大碩学であった。
「入りたまえ」
と、さっきよりちょっともったいぶった返事が聞こえたので、私は、入ります、と声をかけて扉を開けた。観月老は火のついていないパイプをくわえ、さっきと同じように椅子に座って、性懲りもなく窓の外を見ている。私が扉のところで三度一礼すると、彼は椅子ごとくるりと振り返って、言った。
「ようこそ、私の大好物へ」
「ソレヲ言ウナラ研究室ヤンケ」
と、私はあくまで無表情、棒読みを崩さないように気をつけながら、言った。もっとも、すぐその後で耐えきれなくなり、
「さっきよりだいぶ、遠いようですが」
と続けてしまったのだが。観月老は私を見てしわの中に顔をうずめるような笑い方をした。どうやら、彼なりの人間評価基準に合格したらしい。私は所属、姓名とあらかじめ訪問を手紙で申し込んであったむねを伝えた。老は、うなずき、パイプを持ったままの手を、応接用のソファに向かって差し伸べた。
「ま、座りたまえ。ささ、そちらが空いている」
私はソファの「空いている」ところに自分が座る場所を作るために、本を数冊、脇にどかさなければならなかった。
そこは兵庫県の山中の一角にある、上東条天文観測所、通称大西科学の敷地内だった。観月老の研究室――ということになってはいるが、実際のところちょっとした書斎――は、ガラス製品などを作る工場から離れて、さらに山道を少し分け入ったところに、書庫や寝室などいくつかの他の部屋と共に、煉瓦作りの洋風建築としてしつらえられていた。眼下の工場、研究機器製造販売元として成功を収めた大西科学を息子に譲ってから、大西観月老はこの研究室で日々を過ごしているそうである。私は、山道を登ってきたせいで少し汗ばんだ顔をハンカチでぬぐいながら、ありがたくソファに腰を下ろした。部屋の中は、見苦しいほどではないものの、得体の知れない実験器具類と山のような書籍類が並べられて、いくぶんにぎやか過ぎるありさまである。どういう構造になっているのか、この室内は外に比べるとずいぶん涼しいようだった。そもそも、廊下まで追いかけてきていたあの包み込むような蝉の鳴き声さえ遠くかすかになっている。老は、私の向かいのソファに腰を下ろすと、傍らで昼寝をしていた猫を引き寄せて、ひざの上に置いた。観月老同様、相当の老体らしいその白猫は、されるがままになっている。
「それで、私に何か聞きたいことがある、ということでしたが」
遠いところをはるばるようこそ、いえそれほどでも、といった通り一遍の挨拶が済むと、観月氏は、丁寧に白猫の毛並みを整えながら、こう私に聞いた。
「はい。実は、地軸変動説についてなのですが」
「ほう」
このところ、ちょっとした風聞が神戸の街に流れていた。近々地球に大きな変動が起こる、それは地球の回転軸の変動である。自転軸が曲がり、日本や南極が赤道に、アメリカが北極になってしまうのだ、というものであった。地軸の変動とはまた大掛かりな災害の予言であり、ウェゲナーという怪しげなドイツの学者が唱えた「大陸移動説」の影響が見られるが、やはり隠れた要因となっているのは昨年に始まった満州事変であっただろう。戦勝につぐ戦勝にわきかえる帝国の民は、しかしそのどこかに危うい崩壊への匂いを嗅ぎ取っており、それがこのような終末論に近い風聞の元だねとなっていたものかもしれない。
「風聞は風聞でしょう。それをあなたのような、新聞記者が調べてもどうにもなりますまい」
老は、楽しむような口振りだった。ほとんど相好を崩していると言ってもいい。
「いえ、それが、結構な噂になっておりまして。このままでは暴動が起きるのではないかと言われているほどで、現に取り付け騒ぎに近いような騒乱も起こっているのです。ここは一つ、天文学者である先生の方から、地軸の急変について、そんなことは起きない、というお言葉をいただければ、や、これはすいません」
私は勧められた煙草をありがたくいただいて、燐寸で火を付けると、一息吸い込んだ。
「おやおや、最初から否定論を聞きたくてやってきた、と決めてかかられておられる。これは新聞記者らしからぬ態度ではありませんか」
と、この老人が片目をつぶって見せたので、私はまたも驚くことになった。
「そ、それでは、地軸変動が起こりうる、とおっしゃるのですか」
私も一通りの下調べはしてきた。地球は正しく球形になっているわけではない。地球の自転による遠心力の命ずるところに従い、赤道の周囲は、極地方に比べて、二〇キロメートルあまりも高くなっている。今、地球がそのまま、赤道を極に、極を赤道にして回りはじめたとすると、新たな極の海水は干上がり、新しい赤道が四〇キロ以上の厚さの海水に覆われることだろう。しかし、地球の表面は海ばかりではない。陸地は岩石を乗せたまま、高みへ移動しなければならないことになるが、そんな力はどこからも出てくるものではない。つまり、地球は、その形を変えずして回転方向を変えることは不可能なのだ。とまあ、私はここへ、そのあらかじめ出した結論に、ただ専門家のお墨付きをもらいに来たようなものだったのだ。
「ああ、ちょうどいいものがある。ちょっと失礼」
観月氏は、不満そうな猫を脇のクッションの上にどかすと、机の引き出しからどんぐりほどの大きさの白いものを持って引き返してきた。
「コマ、ですね」
「そう、独楽だ」
コマではあったが、それはなんとも不細工なコマだった。直径一寸ほどで、一方の端につまみが出ているほかはほとんど球形だった。木製らしいが、漆かなにかで、上下に奇麗に紅白に塗り分けられている。
「あまり回りそうにないように見えますが」
「回してみましょう」
氏は、コマをつまむと、机の上で勢い良く回した。私は、観月老が、左手でコマを回したことにちょっと違和感を覚えながら、コマに注目した。コマは、つまみのある上面、赤く塗られたがわを上にして回っている。普通のコマと違い、机面に触れる部分が針ではなく、球面になっているので、回転軸が少しふらついているようではある。
「これを、地球としてみましょう。勢いよく回転している。私は今左手でコマを回したから、これは地球の回転する向きと同じ、左回りに回っている。もちろん赤いところが北半球として、ですが」
「はい。しかし、ふらふらしていますね」
と、私が言っている間にも、コマは勢いをなくし、ふらつきはますます大きくなってゆく。と、信じがたいことが起こった。今まで赤い面を上、白い面を下にして回っていたコマが、いきなり、かつ、という小さな音を立てて逆立ちをしたのだ。私はしばらくの間、なにが起こったのかわからなかった。軸のふらつきが、最も大きくなった、と思った瞬間、コマはつまみを下に、白い半面を上にして回っていたのである。
「これが」観月老は、嬉しそうに笑った。「地軸変動ということでしょう。いかがですかな」
「いや、驚きました。今度は私が回してみてよろしいですか」
まもなく勢いを緩め、今度こそは普通に回転を止めたコマを私は手にとった。なんの変哲もない、不格好なコマにしか見えない。
「ええ、どうぞ」
私は、コマをつまんで、勢いよく回してみた。右手を使ったため、コマの回転方向は、さっきと反対、右回りだ。地球に例えると、今度は赤い側が南半球を意味していることになる。
「ところで」
と老は、まだコマが逆立ちを始めないうちから、切り出した。
「さっきコマが逆立ちをしたとき、どちら向きに回っていたか、覚えておられるでしょうか」
「あ、いえ、それは」
私は、考えてみたが、わからなかった。
「では、今度こそよくご覧。今は、そう、右回り」
「はい」
コマは、私の見ている前で軸をふらつかせはじめ、一瞬コマの赤道を軸に回りはじめたかと思うと、またも突然に、つまみを軸にして立ち上がった。私は、コマをよく見て、言った。
「右回り、ですね。いや、何といったらいいか、さっきと同じ向きです。コマが逆立ちをしているので、コマ自体は、逆向きに回りはじめたことになるわけですが」
そう、コマは上下が入れ替わったことさえ無視するなら、同じ向きに回り続けていた。コマの紅白が反対になったので、白い側が南半球ということである。
「でしょう。これはまあ、ある意味当然なのです。角運動量保存則と言うのですが。物はそれが持っていた回転の強さを保持し続ける性質があるのですよ」
「教えて下さい、どういうカラクリがあるのですか」
「カラクリと言いますか、さて」
観月老は、ひらりと立ち上がると、壁に吊られている黒板に向かった。既にびっしりと書かれていた意味のわからない殴り書きを、粉が飛び散るのも構わずに乱暴に黒板消しでぬぐうと、白墨を手に取った。
それから老は、私に短い講義を行った。その内容を簡単にまとめるとこのようになる。
このコマは、回転モーメント(これは、軸の回りの回転しやすさ、と一言で言ってそういう量である)が最も少ない状態「逆立ち」に向けてその回転状態を変化させる。ここで、コマがほとんど球形であること、つまり、最初の回転という準安定な状態から、最終的な「逆立ち」まで連続的に変化できる形であることが、この逆立ちコマの一つの条件である。さて、逆立ちをするとき、明らかにその直前の状態に比べて重心が上に上がる。これは、軸のまわりの回転の勢いが、自分を押し上げる力に変わっているのである(したがって、回転の勢いは「逆立ち」をすることによってかなり減殺されることになる)。したがって、コマの角運動量は保存されているわけではなく、それは机全体に拡散されて、打ち消される。地球に例えて言えば、現在の回転状態から、北極が赤道に、赤道が北極に、という回転状態に変化するために、自転の速度を大きく落として力に変えたようなものなのである。
「要するにこういうことです。地軸を変動させる力はある。それは地球の自転の力である。しかし、回転力を赤道の岩盤を極に持ち上げる力に変えるためには、角運動量のはけ口をどこかに作ってやらなければならない。地軸変動は起こりえますがしかし」
老は、チョークで汚れた手を払って後ろで組むと、私に向き直って、続けた。
「小さくなった角運動量を相殺するべきものがないのです。地球は机の上で廻っているわけじゃない。まあ、そういうわけで、地球ではめったなことでは起こらんのでしょうな」
私はすっかり感心して、何度もうなずいた。
「もちろん、われわれが知らないことはまだ数多く残っています。地軸を変動させるなんらかの力が、これから発見されるかもしれない。が、まあ、その変動を予見したとか、それがもうすぐ起こるだとか言ってはいけないでしょう。私達は結局、歴史上一度も起こらなかったことが起こるなどということを、予見することなどできないのです」
「十中八九大丈夫、ということですね」
「いや」老はまた笑って「一割や二割も可能性があるわけではありますまい」
私は所詮新聞屋であるから、観月老が最後に何を言ったのか、もうひとつよく分からなかった。