たとえばあなたが家を出て、ひとりぐらしを始めるために住居を決めるとき、不動産屋が勧めるいくつかの物件のどれにするかというような選択を迫られることになるが、事前に気を付けなければならないことはいくつもある。私は、今の住居を決めるときにかなり高い優先順位をつけて「ラフォーレ」とか「プレサージュ」とかそういう恥ずかしい名前をつけられたアパートだけは避けよう、と思っていた。あとで書類などに住所を書くとき「アーバンレジデンス浜崎102」といちいち書かなければならないのでは恥ずかしくてしかたがないからだ。特にボーリングやカラオケなんかで会員証を作ってもらうことになったときなど、店員の見ている前で、うまく書けないボールペンを騙し騙し「ウエノダイアモンドパレス3号室」などと書かなければならないかと思うと顔から火がでそうになる。あなたはそんなことないですか。
しかし、そうしてアパートの名前、部屋の構えや日当たり、近くの駅までの距離やスーパーマーケットの配置などにどれだけ気配りをしても、運に頼らなければならないことというのはあるもので、近所にうるさくする人が住んでいた、などということはどうしようもない。
あるとき私の知人で、これはアパートの一階だったのだが、近所にどうも暴走族が住んでいたらしく、毎朝けたたましいエンジンの爆音で起こされてしまう、と悩んでいる人がいた。毎朝規則正しく6時半に出勤する暴走族というのもおかしなものなので、それは単に自動車のマフラー(消音器)が脱落していて、しかもそれに気が付いていないだけなのではないか、と思ったのだが、その車を見に行ったところ、どうも本当に好きでマフラーを取り外しているということだったらしい。その車の車高は地を這うように低く、窓ガラスには原始の闇のように黒いフィルム。車体後部には青く光る機能不明の棒が二本、どんどんと屹立していたとのことである。パラッパラッパーごときで雑文を一本書いた自分を恥じる気持ちでいっぱいである。
さて、ここに一人の女性に登場していただこう。彼女は十八歳、大学に合格するとともに親元を離れ、その春から待望の一人暮らしを始めたところである。親が精いっぱいの援助をしてくれたおかげもあり、そこそこ広いマンションの七階などで新生活をスタートすることができた。マンションの名前こそ「プリムローズ・カナヤ」などという突拍子もない名前だったが、彼女は自分の城に満足していた。
一人暮らしでなにもかも珍しい彼女は、引っ越してきてすぐのころ、観葉植物の鉢植えを購入した。自分の住居にそういう緑があるっていうのはなんとなく素敵だよね、などと思って買ってきたのである。観葉植物に水をやらなくっちゃあ、などと、コンパを途中で抜けるのにも便利なのだ。日の光を浴びさせるために、その鉢植えの定位置はベランダ、ということになった。夜、ふと部屋の中で一人であることを意識したとき、その「スパイダープラント」が窓の外にあることがずいぶん慰めになるものだ、と、彼女は思った。
ところが、夏になって、彼女は気が付いてしまたったのである。その観葉植物が妙に弱っていっているということに。どこがどうとは特定できないものの、なんとなくみすぼらしい感じに変わっていっている。最初は世話が不十分で、肥料が足りなかったり、水を切らしたりしているからなのか、と思っていた彼女だったが、よく観察してやっと合点がいった。その鉢植えの葉っぱがことごとく短くなっているようなのだ。勘違いかもしれないので、葉っぱの長さをメモしておいたりした。間違いない。特に下の方の葉っぱが、だんだん短くなっている。
虫がついているのだろうか。彼女はこわごわ葉っぱを裏返したりしてみたが、よくわからなかった。だいたい、マンションの七階というと、蝿や蚊のたぐいもめったには上がってこれない高度なのである。鳥かなにかだろうか。都会で、巣をつくる材料に事欠く小鳥が、こんなベランダの観葉植物まで狙っているのかも。それにしては鳥の姿など見たことがないのではあったが。
ある夜、彼女は夜中まで友人と電話で話をしたあと、眠ることにした。なんとなくつけっぱなしになっていたテレビを消すと、部屋の中は急に静かになる。部屋の灯かりを消して、ベッドに入る。と。しばらくして。
窓の外で音がするのである。しゃりしゃり、しゃりしゃり、と、言葉にするとそういう音だった。網戸にして開けっ放しにしている窓のすぐ外で、その音は続いている。ふと「ベッドの下の殺人鬼」というような都市伝説を思い出して、彼女は恐怖に震えた。まさか、痴漢だろうか。
彼女は、これはもう、そういう人だから、と言うしかないが、大胆にもベッドを出ると、そっと電灯のスイッチに手をかけ、思い切ってぱっと灯かりをつけた。
猫だった。どこから来たのだろうか。太った猫が一匹、そこで彼女の観葉植物の葉をしゃりしゃりと音をたててかじっていたのだった。彼女も驚いたが猫も驚いた。あ、こりゃ。まだ起きていらっしゃったのですか、という目で彼女を見た猫は、それじゃあたしは失礼しますんで、とさっと身を翻すと、ベランダの手すりの上から、隣の部屋に消えていった。謎はすべて解けた。彼女はどっと脱力すると、観葉植物を部屋の中に移動して、眠りに就いたのだった。
なんといっても、猫というのが葉っぱを食べるものだとは知らなかった彼女である。確かに、犬はよく散歩の途中でそのあたりに生えている雑草を食べはじめることがある。「犬のひみつ」とか「犬大百科」とかいう本には、犬は基本的に肉食なのだが、胃が弱ったりしたときに消化の助けとなるそういう草を本能的に食べるのだ、と書いてあった。だとすると、猫にしてもそういうことなのだろうか。そういえばずいぶん太っていた猫である。何ヶ月も続けて隣のベランダに侵入して、観葉植物を食べていたなんて。
「へえ、そんなことがねえ。それで、その後どうしたの」
と私は聞いた。彼女はちょっと首をかしげて、こう答えた。
「ペットショップに行って『猫の胃薬』を買ったのよ」
「何でもあるもんだねえ」
「で、それを持ってお隣を尋ねたの。だって、これ以上鉢植えをかじられちゃ、たまらないもの」