紀伊へ

 酔っているときはそういうものかもしれないが、どうにも自分の利益になるわけでもない変なことを断言してしまう癖が直らない。
 たとえばある宴会で「もやは私の人生において和歌山から学ぶものは何一つない」と発言したことがある。和歌山に恨みがあるわけでもなんでもないのに、その場の雰囲気で引っ込みがつかなくなった私は、宴会の残り半分、人生において和歌山県が存在しなかったとして困ることはなにか、という話題について延々防衛をつづけるはめになった。

 実際、近畿二府四県の中で、ある日突然、どれかの県が丸ごと「最初からなかった」ことになった場合、最も気づきにくいのが和歌山ではないだろうか。東海道新幹線はちゃんと走り続けているし、いきなり大阪が水不足になったりもしない。大仏があるのは鎌倉とあと一つどこだっけ、というような悩みを抱える心配もない。さらに言えば、和歌山出身の、少なくとも和歌山出身であることを売りにしているような有名人もこれといって知らないのだが、徳川吉宗以降だれかいただろうか。もしも悪魔に三つの願いをかなえてもらう代わりにどこかの県をいけにえに捧げるとしたら和歌山ではないか、などと、私が信じていると思わないで欲しいのだが、とにかくその場を勝利するためにそういったことを言ったのである。

 ところが、それからすぐ、日本中を震撼させた大事件が和歌山で起こった。例の「和歌山のカレー毒物混入事件」として知られる毒物事件である。しばらくはニュースを見るたびに「悪魔のことを話していると現れる」という英語のことわざが胸に去来してならなかった。そういえば私は、例の阪神大震災の一ヶ月前にも、日記に、東北地方での中くらいの地震のニュースを見た感想として「まあ、地震というのはどういうわけか思ったほど被害は出ないものである」などと書いている。「反予言者」としての素質があるのかもしれない。

 さて、このように侮りがたい和歌山だが、和歌山といえば、私の兄弟を含む家族で、那智山青岸渡寺に参ったことがある。落差130メートルという、有名な那智の滝が近くにあって境内からも望見できるという寺で、夏に旅をするには大変涼しげでいい寺である。奇麗に整備された参道には多数の土産物屋も並んでおり、「那智黒」という黒石の加工品を主に販売している。私は那智黒というのはもともと飴のことではないのだと、ここで初めて知った。
 そもそも青岸渡寺は、亡くなった祖父が、かつてお盆などに御詠歌を唱えるときに「いちばん、きいのくに、なちいさん」とはじめていたあのお寺であって、この辺りは私と出身地と宗教が近い人はヒザを打って納得してくれるところではないかと思うのだが、ともかく「西国三十三ヶ所巡り」の起点、第一の札所である。和歌山県、こうして見るとなくなって困ることもなかなか多い。

 那智山は和歌山県の東の端近くに位置しているので、大阪方面から和歌山入りすると、ぐるりと海側を回り込んで、和歌山県をほとんど完全に一回りすることになる。そういう自動車旅行をしてみると気がつくのだが、移動に使うことのできる道は、事実上海ぎわの一本(国道42号線)しかない。神戸の大震災の時も、神戸という一都市が東西交通に果たしている役割の大きさに驚いたものだが、和歌山における国道42号線の重要性はそれ以上であった。どうも印象では、人口のほとんどが海沿いの狭い地帯に集中していて、そこを一本の道がつないでいるような状態である。

 和歌山県ゆかりの方は、この文章を読んでいて、そろそろ「確かにそうだが、なにか文句があるのか」といいたくなる頃だと思う。どうしてそんなことをわざわざ書いたのかというと、実は、その那智山に参った帰路、私たちの自動車が、和歌山県内で渋滞に巻き込まれて全く進めなくなってしまったのである。夏休みの一日であったため、大阪から和歌山への日帰りの観光客もよほど多かったのだろう。想像なのだが、和歌山県の南端、潮岬あたりから、大阪に向かって国道42号線上にびっしり自動車がつまっていたのではないかと思う。そんな渋滞だった。

 長い夏の日もついに暮れ、自動車道路沿いの高圧送電線の鉄塔の上で、ゆっくりと赤い光が呼吸するのを眺めながら、私たちの自動車は実にのろのろと故郷に向かって進んでいた。一日を車の中で過ごした私たちの疲労も、車内に色濃くにじみ出ていて、手を伸ばせばそのじゅくじゅくした空気を触れそうなありさまである。

「なあ、ここらで一つゲームをしよう」
 と、私はハンドルに前のめりになってもたれながら、車内の沈黙を破って、言った。
「眠たいんだ、寝かせてくれ」
 と、助手席で地図を顔に乗せて弟が言う。実は、ここまでの道のりで、ひととおりのパーティゲームはやり尽くしていた。山手線ゲーム、「現役のプロ野球選手」といった過酷な縛り付きのしり取り(あっという間に終わった)、牛タンゲーム、マジカルバナナなどなど。私は一人になるのが怖くて、断固として言う。
「私がいまから一つの単語を思い浮かべるのでそれを当ててくれ」
「じゃあ、『スーパーはぼき』」
「ばかもの。いきなり当たると思っているのか。君には二〇回、質問を許す」
「じゃあ、質問。その思い浮かべたものはなんですか」
「ばかもの。イエスかノーかで答えられる質問だけだ」
「じゃあ、質問。このゲームは面白いんですか」
「ばかもの。面白いに決まっている。大サービスで今のはノーカウントだ。さあ質問しろ」

 私も誰かの書いたエッセイか小説かを通して知っているだけなのだが、「二十の扉」というクイズ番組が昔あったらしい。二〇回というのはかなり微妙なバランスであって、よほど難しいお題、たとえば「ほら貝」だの「制服の第二ボタン」だのであっても、それなりに的確な質問を積み重ねれば当てることは不可能ではない。この沈滞した空気をなんとかするため、それをやろうというのである。
「それは生き物ですか」
 質問が始まった。
「違います」
「それは食べ物ですか」
「違います」私はにやりと笑う。「そんなことをやっていると、あっというまに質問が二〇回になってしまうぞ」
「本当に二〇回でこんなもの、当たるのか」
「はい」
「あ、待った。今のはノーカウントだよな」
「違います」
 ひどい話である。

「むむむ、じゃあ、こうだ。それはデパートで売っていますか」
 しばらく考え込んでいた弟だったが、やがてこう言った。確かに、これはかなり強力な絞り込み条件である。森羅万象を大体二つに分ける質問をするのがコツなのだ。
「いいえ。考えたな」
「それは固有名詞ですか」
 またも的確な質問だ。わが弟ながら、実は凄く頭がいい奴なのかもしれない。
「はい」
「地名ですか」
「そうです」
「ふふふふふ、ふわはははははっ」
「ど、どうした。何がおかしい」
「謎は全て解けたぞ。貴様の考えることなどお見通しだ。『和歌山県』だろう」
 と、いきなり核心を突かれたので、私は心底驚いた。まだ八つ目の質問で、当てられるなんて。
「なぜだ。どうして分かったのだ」
 見れば彼は、指を一本立てて、左右に振っている。
「ふふん。まあな」

 というわけで、少なくとも我々兄弟の間では、生き物ではない、食べ物でもない、デパートで売っていない、固有名詞を持つ地名といえば「和歌山県」なのである。影が薄いなんて言ってはいけないのである。


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