ご機嫌蛙生活

 今日も今日とて、何かがおかしいのではないかと思うのだが、私は盆に里帰りをしたはずが思いきり畑仕事に駆り出されていたのだ。曇りとはいえくらくらしそうな蒸し暑さの空の下、しかも前半はほとんどビニールハウスの中での作業だったのである。濡れ雑巾を絞るように容赦なく体から水分を奪い去られながら、僕ってうちの子じゃなかったんだ、だからこんな仕事が与えられるんだ、などととあらぬことを考えていた私である。

 私の作業の内容は、収穫が終わったトマトの木を片づけるというものだ。役目を終えたトマトの木を竹の支えから外して、根っこから切り取って脇に捨てる。竹の支柱も、最終的にはくくってあるヒモを外して取っ払ってしまい、更地に戻してしまうのである。これまでのひと夏、我が家に莫大な富と栄養をもたらしてくれたトマトの林が片づけられてゆくのはなんだか寂しいが、しかたがない。次にここに植えるべき苗は別の場所で着々と育ちつつあるのである。

 さて、夏の畑にいて驚くのが、蛙の多さである。蛙にも理性がある証拠に、ビニールハウスの中にはほとんどいなかったのだが、外の畑の畝の間を歩いていると、逃げ惑う蛙達が、そこら中で私から遠ざかるように跳びはねる。土色のやつ、闇のように黒いやつ、豆粒のようなやつ、食べでがありそうなくらい大きなやつと種類はさまざまであるが、すべてをひっくるめた蛙密度は一平方メートル当たり二十匹はあったのではないかと思う。

 そうやって歩いているだけで逃げてゆくやつばかりではない。トマトの木を支えから切り取って外していると、そこからなお飛び出す蛙がいるのには参る。彼らは自分のよって立つ木が切り倒されているのも知らぬげに、ぎりぎりまでトマトにしがみついているのである。逃げ遅れているのはたいてい、緑色のニクいヤツ、アマガエルである。

 おおむねこういう小動物はすっかり怖くなってしまった私だが、アマガエルだけは昔取ったきねづかでまだ平気なようである。私も怖がらないが向こうも私を怖がらない。まったく物おじしないのがこのアマガエルの特徴で、残った支柱に斜めにしがみついたままの彼のそばに指を伸ばしてやると、小さくはねて、私の人さし指に跳び移ってきた。蛙の吸盤は、ひやりと冷たくて、指にぺたりとはり付く。その引っ張られるような感覚のあまりの懐かしさに、私は必ずしも夏の暑さだけではない、ちょっとした目まいを感じた。

 よく見れば、アマガエルというのは何とも言えない愛嬌のある顔をしている。上面がきれいな緑、下面が白という零戦のような基本塗装の上に、目の後ろの、丸いへこみ(耳らしい)のところから、目を通って鼻の穴まで細く黄色い筋模様が一本通っている。黒く、猫のように縦に割れた光彩は、精巧なおもちゃのように小さく光っていて、ヘの字に結んだ口の下ののどは、せわしない呼吸に常に膨らんではしぼんでいる。

 そういえばこんなことがあった。小学生の時の私は、ある夏のはじめ、数匹のアマガエルを捕まえて、ジャムの空き瓶に入れた。瓶の中には、少し水を入れて、そのあたりから抜いてきた雑草をやはり数本、入れておいた。閉ざされた空間で蛙という動物と、植物をいっしょに入れて閉鎖された生物系を作るつもりだったのである。バイオスフィアだったのだ。

 もちろん蛙にしてみれば、えさもない、酸素もおそらく足りない、とんでもない環境だっただろうと思うのだが、私は、言語道断なことに、ジャムのフタをきっちり閉めると、そのままこの実験のことを忘れてしまった。
 私が次にこのことを思い出したときの衝撃と言ったらなかった。夏休みもそろそろ終わろうかというときになって、やっとこの瓶の存在を思い出したのだ。私は、その瓶を置いた棚のところまで恐る恐るやってきて、中を覗き込んでみた。

 そこにあったのは、蛙達のかりかりに干からびた無残な死体だっただろうか。いや、違ったのである。瓶の蓋を開けて中のものを出した私は、そこから二匹のアマガエルが元気に跳びだし、田んぼに向けて帰ってゆくのを見たのだ。なんということだろう。あの脆そうな生き物は、しかしこの過酷な環境を見事に生き残っていたのだ。

「アマガエルは、いいねえ」
 と、そんなことを思い出しながら、指の上の蛙をキスせんばかりに覗き込んで、こう私が言うと、父は唐突に言った。
「ああ、全部違う顔をしているやろ」
 えええっ。私は驚いて、向こうで別の仕事をしている父の顔を見る。蛙はその間にぴょんと跳ねて、草むらに消えていった。
「本当か、それ」
 私は慌てて次のアマガエルを探した。近づきつつある破局に気づいているのか、支柱の竹の節の中で惰眠をむさぼっていた別のアマガエルを見つけた私は、じっと観察してみた。驚くべし、顔のくま取りの形に明らかな特徴があって、さっきのとは別蛙であることがちゃんと、分かるのである。
 生まれてから18年を田舎で過ごして、こんなことにも私は気がついていなかった。蛙道、まだまだ奥は深いようである。


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