交換関係

「あら、雨」
「そうですね。おやおや、これから帰ろうと思っていたのに」
 私はオフィスの窓から外を見下ろした。水銀灯の明かりを透かして見ると、夕立なのだろう。かなり降っているようだ。こういう状態を私の故郷では「本降り」と言っていたが、あなたのところではどうだろうか。ごく軽い雨を「ぴりぴり降る」と表現する地域はかなり狭い、というのは確認済みである。
「傘持ってるの」
「ええ、出入り口のところの傘立てに置き傘をしてありますから」
 私はそう答えると、荷物を持って、席を立った。
「それじゃ、お先です」
「お疲れさま」
 と、オフィスを退出した私は、傘立ての所で途方に暮れることになった。自分の傘がないのである。非常によく似た傘ならある。しかし、識別上の目印にしていたシールがグリップに貼ってないのだ。これを持って帰っていいものだろうか。良くはあるまい。たとえ誰かが間違えて私の傘を持っていったのだとしても、その証拠が無いかぎり他人の傘を勝手に持ってゆくわけには行かない。

「区別できないんだったら、どっち持っていってもいいんじゃないの」
 傷心のオフィス帰還を果たしたところで、こんなことを言われてしまうのだった。
「ええ、そうなんですけどね。でも、区別がついてしまったんですよ。私もあわてていたりして間違えてしまえばよかったのかも知れないんですが」
「帰らないの」
「いや、もう少し小やみになったら」
「どうせわかんないのに」
「止みそうもなかったら、そうします」

 しかしながら、区別できない場合はどっちでもいい、というのは名言である。私の高校では、高校の推薦英和辞書というのが決まっていて、素直にそれを買うとあとで英語の先生に「みんながみんな同じ辞書を持っているより、いろんな辞書があったほうがいいんだけどなあ」とぼやかれてしまうのだが、とにかくほとんど全員が同じ辞書を持っていた。そうすると、なにしろ高校生というのは自分の持ち物に名前など書かないから、すぐ入れ替わってしまうことになる。私は、高校を卒業してかなりたったある日、何気なく辞書をめくっていて、奥付のところに「ばびーん」と吹き出しがついたりしている美少女の落書きが入っているのを見て愕然とした。高校のクラスメートのだれがこんなものを書いたのかわからないのだが、いつの間にか入れ替わって、しかも双方それに気づかないまま大学生になりおおせてしまったらしい。まあ、辞書の内容が違っているわけでなし、これでいいのである。

 傘や辞書だと、このようにほとんど同じでも、買ったばかりでもないかぎりどこかに違いがあるものだが、どんどん対象を小さくしていって、原子とか素粒子の段階になると、見分けられないということは全く同じである、ということになる。このナトリウムとあのナトリウムは交換しても完全に違いがない、ということは前に書いたが、面白いことに、区別のつかなさというのはもっと完全なものである。

 たとえば、素粒子1と素粒子2の二個の素粒子があったとする。それがある条件の元で二つの状態、やや不正確な例えになるが、たとえば箱の左半分にある状態と右半分にある状態のどちらかをとるとする。
 普通、赤と白のボールで考えると、赤も白も左、赤も白も右、赤が右で白が左、赤が左で白が右、の四通りの可能性がある。玉同士が衝突する効果を考えなければ、箱を適当に振ってぱっと見てみると、このそれぞれが同じ確率で起こることになって、赤と白が両方左にある可能性は1/4である。これは、白いボール二個でやってもおなじことで、二つとも左、二つとも右、右と左にひとつづつ、と書いてみると三つの状態しかないが、両方左、という可能性はやはり1/4である。1/3になったりはしない。ところが、これが素粒子になると、どちらも左、という可能性と、一つずつという可能性はどちらも等しく1/3になってしまうのだ。嘘のようだが本当の話である。素粒子1と素粒子2を違う素粒子にすると、ちゃんと赤白のボールのように1/4ずつの可能性になるにも関わらずである。区別できないから、同じということは、現在の科学では区別できないとか、本当はできるのだが便宜上同じと見なすというレベルを大きく越えて、まったく完全に自然自身にとってさえ区別できないらしいのである。とんでもない話だ。

 これが傘くらいの大きさの物になると、全く同じとはいかないわけである。買ったばかりでも、小さい傷があったり、工作上のわずかなムラによって、たとえ人間には区別できなくても必ず違いがある。これをまったく、原子一個、素粒子一個のレベルまで同じものを仮に作ったとしたら、人間には区別できないのは当然として、別の物理法則に従いはじめるというようなことはあるのだろうか。よくわからない。

「まあ、もっとデジタルなものだと、区別できないんでしょうねえ。ノートパソコンとか」
 機能上同じ役目を果たしたらいい、というものもまた存在する。パソコンなんていうのはかなりそういう存在であり、データさえ移し替えれば事実上均一なものであるはずである。私のマシンより、あなたのマシンが、クロック周波数もメモリ容量も同じなのに、なぜか速い、などということはないのだ。
「いや、それそれ。それがね」
 ノートパソコンを買ったら初期不良だったそうなのである。どうも、起動時に途中で止まったり、スリープ(サスペンド)状態にして放っておくと目覚めなくなったらしい。メーカーに連絡したらすぐ交換してくれたのだが。
「じゃあ、いいじゃないですか。傷なんかも元通りになって一石二鳥というか」
「ううん、それが。液晶パネルって、ほら、ドット欠けっていうのがあるでしょ、製造上やむをえずとかいう」
 液晶画面の中で、一点か二点が、光ったまま暗くならないとか、その反対とか、故障している状態である。液晶パネルというのは全体を一遍に作るものなので、そこだけ交換したり修理することはできないらしい。しかも、結構な頻度でこの不良は起こってしまうため、一点が不良だっただけで出荷しないとなるとかなりコストに響くのだ。だから、数点くらいのドット欠けは「仕様である」ということにして出荷してしまうらしい。
「ええ」
「交換前の液晶がね、そりゃもう、凄い液晶だったのよ。一点もドット欠けなし」
 それはかなり珍しい。
「あ、すると、じゃあ」
「交換されて戻ってきたら、三つも光りっぱなしの点があって。もう」
 つまり全取っ換えになったのだろう。確率的に、二度もそんな素晴らしい液晶モニタにあたることはないのかもしれない。
「絶対修理の人か誰かが私のノートの液晶だけ取っ換えたんだと思うわ。嫉妬して」
「多分そんなことはないと思いますけど」
 私は窓からまた空を見上げた。雨はいよいよ激しさを増しており、雷なども鳴り始めている。
「どうも、止みそうもないですね。やっぱり似た傘を持って帰ることにします。じゃ、失礼します」
「さよなら」
 私のによく似た傘は、骨が二本も折れていた。交換したら悪くなった、ということは確かにある。


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