この世界はさまざまな精霊たちで満ちあふれている。でも、ふつう人はそれに気がついていない。
風の精霊は、そんな中でももっとも忙しげな精霊の一つで、いつでもここからどこかへの旅の中にある。一時たりともとどまってはいない。あるときは台風とともにやってきて、たわむれに隣のクリーニング屋の「プリント0円」という看板を吹き飛ばす。またはボロアパートの屋根を引っぺがして持っていったりもしてしまう。そうかと思えば、暑かった夏の午後遅くにふと網戸をくぐり抜けて訪れ、あなたの心の銀の鈴を静かに鳴らして去ってゆく。自転車に乗って道を急ぐ高校生の周りを踊るように駆け抜ける。
ところが、世の中にはこの気まぐれな精霊に例外的に愛されている場所もあって、そこはいつでも風の精に満ちて、訪れるわたしたちを待っている。それがどんなところか知りたければ、たとえばそう、大阪の地下鉄恵比須町駅の「1−A出口」というところだ。日本橋電気屋街の「シリコンハウス共立」に一番近い出口になる。何が気に入ったのかわからないが、ここにはいつも風がつどっている。 最近では、わたしの会社の、社員食堂の入り口のところがそうだとわかった。
わたしは、たぶん最後の風使いだ。祖父からは、百年に一人の逸材だと、わたしが幼いころから何度もそう聞かされた。風の王が、消えつつある風使いたちを哀れんで、最後にこのような優れた風使いを遣わしたのだ、と。もっとも、わたし以外の風使いといえば、その祖父と、会ったこともない叔母だけだったから、本当にそうなのかどうか、よくわからない。欲目というやつかもしれない。母は、風使いには、なれなかったし、わたしの弟にも、その才能はないのだそうだ。
風使い、というのは、本当のところ、すこし大げさな名前だ。私は象使いだ、という人に会ったことはないが、多分象を思いのままに操る人のことだろう。ヌンチャク使いはヌンチャクを操る。でも、風使いは風を操らないのだ。
風の精、というと、あなたはこんな情景を思い浮かべるかも知れない。高楼のテラスから手を差し伸べるわたしに、半透明の精霊がまとわりつき、よしなし事を言い交わしてはまた去ってゆく。時にはわたしが精神を集中して、気合いを放つと、轟然と大気が巻き、敵を吹き飛ばす。
全然そんなことはない。風が悪意に満ちている、などと言って台風を予言する能力さえない。いや、ずっと昔の風使いには、ひょっとしてそういう能力が与えられていたのかも知れないが、すくなくともわたしには、ただ風を「見」る力があるだけなのだ。
もしあなたが、すごく長い髪の毛を持っていて、それをぴんぴんと立てるヘアースタイルをしていたら、たぶんわたしの感覚に非常に近いのだと思う。わたしは、あたりを吹き抜ける風が、どこから吹き込んできて、どのように渦を巻いて、またどういうふうに吹き抜けていくかが「見」える。壁に沿ってぐるりと部屋を一巡りし、ビルの壁を駆け登り、あるいは吹き流しをくぐり抜けて、旗を弾き、ポットからゆっくり立ちのぼる風を感じることができる。すこし離れた場所の、目には見えない空気の動きを、皮膚感覚のようにしてとらえることができるのだ。
わたしはこの感知力は、きっと人間に本来そなわっている感覚のひとつなのだとおもっている。でも、祖父は万物に宿る精霊のうち、風の精が与えてくれている能力なのだ、という意味の言葉でわたしにおしえてくれたものだ。ただ、これはあまりはっきりした記憶ではない。本当をいえば、精霊とか、精とかいう言葉も、わたしがあとから考えたものだ。祖父がただしくそれらをなんと呼んでいたかすら、今のわたしは覚えていないのだ。なにしろ祖父が亡くなったのは、わたしがまだ八つのときだったから。
わたしは、いろいろと考えたのに、この能力を現代社会で生かす方法を、ついに思い付けはしなかった。ゴルフなどの、風に影響されるスポーツをやればいいのではないかと考えたこともあった。あれはほんとうはなかなか難しいスポーツだ。高校生の時に父に貸してもらったアルミ製のクラブを、見事に首のところで曲げてしまってから、わたしはゴルフクラブを握ったことがない。たぶん初心者にとっては、風が見えたからといって、どうなるスポーツでもないのだ、あれは。
あるいは、パイロットになれば良かったのかも知れない。飛行機に乗るというのは風を読むということらしいから、わたしの天職ではないかとさえ思う。しかし、これまためったになれるものではないことは確かだ。だいたい、わたしの能力は、ガラスやテレビの画面越しにはまったく働かなくなるのだ。映画「華麗なるヒコーキ野郎」のような複葉機ならきっとどうにかなるのだけど、生まれる時代を間違ったというしかない。あるいは、別の映画で、航空母艦のへりに立って、降りてくる戦闘機を誘導する係、なんていう職業があることを知って、これならと思ったこともあった。残念なことには、日本国はここ五〇年ちょっとのあいだ、一隻の空母ももっていないそうである。
こうして、普通の会社勤めなどしているわたしは、ある日、電車に乗ろうとして、ふと蝉が一匹、ホームに飛び込んできたのを見た。もう夏も終わりに近づいているこの日に、まだ蝉が、と思って見ると、飛び方もどこか頼りなげである。そのせわしない羽から、環のように広がる小さな風を巻きながら、ゆっくりと飛んでいる、と、急に彼の前方に風の「壁」ができているのを、わたしは「見」た。
壁、というのは、風の波がたまたまいくつか重なり合って、大きな気圧のかたまりになったものだ。とにかくわたしはそうだと思っている。駅のホームのような、複雑なのにだだっ広い場所では、ちょくちょく発生することがある。別に人間にとってそんなに危険なものでもない。たとえば、真っ正面から「壁」を突っ切ってしまったとしても、ぱっと顔に一瞬だけ強い風を感じるだけのことだ。けれど、寿命が近い蝉にとっては大きすぎる試練だった。蝉は「壁」に一瞬おおきくゆさぶられると、糸が切れたようにぱたりとはばたきをやめ、つ、とホームに落ちた。落ちた彼の下に最後にひとつ、風の環ができて、消えた。仰向けになって、しきりと足を動かしている彼には、もう、飛び上がる力も残っていないようだ。
わたしは、なんとなく、その蝉のいのちを奪った「壁」の行方をみた。たまたま作られたその「壁」は、ホームの屋根の傾斜に沿って吹き込んできた別の風に、これもたまたま、新たな力をあたえられた。「壁」は、線路の上をわたり、向かいのホームの、あれは何というのか、崖のようになった顎の下に当たって行く先をかえ、思いもかけない強さで吹き上がる。と、その先には、もうひとつたまたまで、空色のワンピースを着た女性が立っていた。いささかホームの端に寄りすぎている。
「あ」
と思ったときには、スカートを押さえたその女性に、わたしはものすごい形相でにらまれていた。ちがうちがう。いいや、見ていたのは確かだけれども、知らん知らん。だいたいわたしのせいか、それ。そんなに変質者を見るような目つきで、にらみつけなくてもいいじゃないか。
いたたまれなくなって視線をそらしたわたしは、もう一度、ホームに落ちた蝉の方を見た。その蝉の、なにかをつかもうとしているかのように動かしていた足の動きも、もう止まっていた。わたしが、風を操れる本当の風使いだったら、きみの命運もここで尽きる、などということはなかったのだろうか。
などと考えつつ、わたしは向かいのホームを絶対に見ないようにしながら、ひたすら、早く電車が来ないものかと念じていた。残念ながら、あたりの風には、まだそのそぶりもなかった。