二ケタの知識で

 よく思うのだが、平安京への遷都の年代を、ごろ合わせを使ったりして七九四年、と正確に覚えることにはあまり意味はないのではないだろうか。
 だいたいにおいて、光速度とか電子の電荷などの基本定数を、私は日常よく必要とするにもかかわらず、有効数字二ケタしか覚えていない。それぞれ毎秒3.0掛ける10の八乗メートルで、1.6掛ける10のマイナス19乗クーロンだ。それでも、ほとんどの場合なんの問題もないし、役にたつことといったら平安京の年号の比ではない。
 つまり、たいていの場合、物事というのは二ケタでなんとかなるようにできているのだ。あなたがちょっと素敵なTシャツを着ていたとして「それいくらしたの」という質問の答えに、2000円、1500円、1530円、1527円のどれがふさわしいかを考えると明らかだろう。世界の人口は五七億人で、逃げている強盗犯の身長は170センチメートルくらいだ。決して200センチでも、173センチでもないのである。

 こう考えると、三桁から四桁の有効数字を必要とする年号は、必要な精度より桁が大きすぎるのではと思う。一般人にはもちろん、研究者にとっても、実質上、平安京は八世紀の末期に作られました、という以上の知識が必要となる場面をあまり想像できないのだ。
 あるいは、今から千二百年くらい前、と覚えるほうがいいかもしれない。1.2掛ける10の3乗年前である。こういう覚え方をすると、近代になってくるにつれて知識が正確になってゆくので、これはこれで理にかなってもいる。大政奉還は1.3掛ける10の2乗年まえ、太平洋戦争の終戦は5.4掛ける10の1乗年まえ、このページができたのは、1.3掛ける10の0乗年まえである。どうだろう。もちろん事件同士の前後を正確に覚えているべきである、というのはまた別の議論になる。

 さて、実はここからが本題である。受験への必要性によって詰め込まれる知識ではなく、生きた知識こそが大切である、ということが言われる。受験勉強をすることが受験以外の役に立たない、と、揶揄を込めてそう断言されることは多いのだが、これは少々皮肉な見方に過ぎるのではないかと思う。ここまでの段落とは矛盾したことを言うようだが、私の経験でいうと、強制によってでも得た知識は決して無駄にはならない。問題は、それを実生活で活用する方法こそが受験勉強に欠けている部分であるということなのである。

 少なくともここで言う生きた知識というのは、実は知識ではない。知識をいかに活用するか、あるいは目下の問題を解決するためにどういう知識が必要になるかの見当をつけるための知識、いわばメタ知識である。受験勉強によって知識を得ることを、レンチ、ドライバー、ラジオペンチといった道具を買いそろえることに例えるなら、「生きた知識」はこれら道具を使いこなす方法を学ぶことである。あるいは、「生きた知識を得る」というのは使う方法ごと工具を手に入れること、というほうが正確かもしれない。もちろん、この道具をもってなにを作り出すかというのはまたさらに高次の問題として残されてはいるのだが。

 得た知識を活用するということは想像以上に難しくて、教師に授業で通り一遍のレクチャーを受けたところでなかなかそれを活用できるようにはならない。活用、というのはなんでもいいのだが、たとえば高校の物理の授業で等加速度運動、ということを教わったら、それを、五階から飛び降りてみたら地上での衝撃はどの程度のものになるのか、それは四階から飛び降りた場合とどれほど違うのか、ということを自分で疑問に思い、自分の知識からしかるべき情報をとりだしてきて使い、問題を解いて結果に納得することである。
 自分で出した問題だから、教科書に従ってこの問題を解き、たとえば結果が終速度毎秒三〇メートル、と出たところで、それがピンと来なければ問題は終わりにならない。時速百キロと換算して、高速道路を走る車にはねられるようなものか、とか、中学生くらいの野球の投手の投げるボールを一遍に体中で受けるようなものか(痛そうである)、という形に直す必要も生じる。

 こういう機会は、多くは自発的には生まれない。せいぜい、他人に「等加速度運動」というものを説明するときに例として持ちだそうとして、自分で例題を作って解く、という作業をしてようやく突き当たる問題なのである。だから、他人に教えることで本当にその知識を自分のものにできるのだ、というのは、ひとつにはこのことを言っているのだと思う。こういう過程を繰り返すうちに、物事は二ケタで十分、などということも実感としてわかってくると思うのである。

 かつて、私がまだ大学生になって間もないころ、ある飲み会で、文系学部にいる先輩から、酒の席の話の接ぎ穂として「そういえば、おれ、放射能って何なのかまだ分からないんだよ、君理学部だろう、教えてくれないか」などと言われたことがある。私は、いまでこそはばかりながら雑文書きの端くれとしてここにいるわけだが、その時の私はただ「そうですねえ」と言ったまま沈黙するだけだった。持っているたくさんの知識の、さてどこから話そうか、どれが面白い話でどれがそうでないか、と考え始めると、何も言えなくなってしまったのだ。

 そこを横から救ってくれたのが、同じ学部の同級生だった。彼はこう言ったのである。
「まず、よく『放射能』というのは、言葉としては不正確で『放射線』がまずあるべきなのです。放射線を出す能力を持っている、ということを放射・能、と言っているわけなので」
 これである。どうだろうこのツカみは。思わず、この後のちょっと硬めの解説を聞いてしまおうと思うではないか。私はただ、賛嘆の目で彼を見るしかなかった。私が、人生において大切なものは知識の量ではなく、知識を選択してふさわしいものを見つけだす能力だと思ったのはこのときである。

 今の私ならどうするだろう。「生きた知識」を十分に身に付けたつもりの私は「放射能って何だろう」という質問を受けたときに、どう答えるだろうか。

「放射能ってアレっスか、おい、新入生、でかい面しとるやんけ、ちょっとホウシャノウらがわまで来てもらおうか、ってそれは校舎ですよね。いや、まったくその通りです。そうじゃのう。あ、受けませんか。じゃあ、落語の『らくだ』で死体を後ろから操る……」

 どうも単に馬鹿になっただけのような気がするのである。


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