失われた遺産

 私があらためて言うまでもなく、この二十年ほどの間というもの、コンピューターの進歩と低価格化はおそるべき勢いで続いている。私が大学生として大学にいた四年の間にも、この勢いはとどまることなく、むしろ加速しつつ続いていたのだったが、最近まで、私にとってそういう進歩は世界のどこかで起こっているあまり自分とは関係のないことのひとつだった。なぜかというとそのころ私は、NECのゲーム機とシャープのワープロ専用機を持っていて、しかもこれで実に十分に用は足せていたので、パソコンにはあまり魅力を感じなかったのである。

 とはいうものの、業界全体の進歩はこういう理系らしくない大学生にも平等にその恵みを与えてくれる。私に実感として分かる「低価格化したコンピューター」は関数電卓の類だった。大学一年のころには「高価だが、商売道具となるものであるし、思い切って買っておくべきもの」だったこれが、大学生活の終わりごろには「なに、忘れた。一〇分待ってやるから生協に行って買ってこい」というくらいまで地位を低下させたものである。私の下宿にも最後には先発と中継ぎと抑えの切り札の三つの関数電卓が転がっていた。なお、抑えの切り札は電池の消耗がやけに早い。

 さらりと「関数電卓」と書いたが、理系でない人にはひょっとしてあまりなじみがないのだろうか。普通の電卓に加えて、サインやコサインなどの三角関数、対数、ルートや累乗を求める機能がついたものである。他にも簡単なプログラムができたり、データ列を記憶して平均などを出す機能がついていることもある。こう機能を並べてみただけで、いらない人には一生いらないものだということが一目瞭然に分かってもらえると思うが、理系の大学生にはどうしたってこれは必要なのである。そもそも、大学の授業のテストでは、関数電卓持ち込み可、ということはつまり関数電卓がないと解けない問題が出題されるということだが、そういう場合が珍しくなかった。

 ところで、関数電卓の速さの比べ方、というのを知っているだろうか。なんといってもまず第一にその速さでしのぎを削っているパソコンにくらべて、関数電卓といえどもしょせん電卓であるから、あまり速さということが重要視されるものではない。大抵はどんな計算でもぽんぽんとボタンを押すと答えは一瞬で出てくる。しかし、その「一瞬」が、短いか長いかという差は、実はあるのである。私たちが大学生らしい暇な時間を利用して編み出した方法はこうだ。有効数字が十桁なら十桁に揃っている必要があるが、まずクリアして、九を九回押す。ストップウォッチを構えて、用意、スタートで「平方根」のボタンを連射する。ががががががと押してゆくと、999999999のルートの平方根のルートの平方根のルートのなんとかのかんとかのなんとかが計算されてゆき、最後に「1」が残る。1になるとあとは何回押しても1だが、そこまでの時間を競うのである。一見ボタン連射の速度を競っているようで、実際はじめはそのつもりだったのだが、意外や意外、けっこう人間の限界よりも先に電卓の計算速度の限界がきて、これは電卓のベンチマークになる。手元に「ルート」ボタンがある電卓があればぜひお試しいただきたい。わりと手加減して連射しなければならない電卓が多いはずである。

 このように、ってどのようにだか全然わからないが、便利に使っていた関数電卓だが、今だとノートパソコンとまではいかなくても「パームパイロット」のような携帯情報端末があってそちらのほうが優勢かもしれない。値段も私がはじめて買ったポケットコンピューターより安かったりする。しかし一方、関数電卓すら存在しなかった時代というのが、十年をそんなにいくつも数える必要はない過去には確実にあったはずであって、その頃の大学生はどうしていたのだろうと考えるととにかく大変だったろうなと思うしかない。

 外国の古いSFを読んでいると、計算尺というものがよく出てくる。古いというのがどのくらい古いかというと第二次世界大戦前であったりするので当然で、このころにはそもそもコンピューターなどというものは地上に無かったのだ。SFであるから、主人公は技術者であったり、科学者であることが多いわけで、彼らは大抵お守りのようにして計算尺を携えていたものである。結構誰でもそうだと思うが、私も読んでいて計算尺が欲しくてならなかった。残念ながら、ちゃんとした計算尺はかなり高価なものであり、私が以前道具屋で見かけたものはかなり上等な関数電卓並の値段がついていたので、とても手が出なかった。

 もうひとつ、計算尺ではできない計算をするために使われていたのが数表である。対数などの関数の値が表になっているもので、いちいち計算する代わりに電話帳のようなこの表を引けば答えが載っているというものだ。

 戦後間もないころに書かれた、ロバート・A・ハインラインという人の、ちょっとジュブナイルっぽいSFの一つに「スターマンジョーンズ」というのがある。物語は、宇宙船パイロットだった父親を早くに亡くした少年が、なんとか恒星間宇宙船の下働きとして雇ってもらい、苦労しつつ立派なパイロットになる、というもので、この主人公の少年はその気概とともに「一度覚えたことは絶対に忘れない」という特殊能力を持っていた。
 たまたま、彼が雇われた宇宙船で重大な事故が起こり、しかし彼のその能力が役に立って船はどうにかピンチを切り抜けるのだが、「絶対忘れない」能力がどういうところで生かされるかというと、宇宙船の操縦装置に彼が暗記していた「数表」を入力するのである。宇宙船の本来の操縦装置が故障したから数表を入れている、というのではない。彼の記憶に頼らなければならなくなったのはその数表が失われてしまったからなのだが、そもそも初めから数表を入力する操縦システムだったのである。一人が数表を読み上げ、もう一人がそれを入力する、などというシーンもあった。この小説が書かれたころの研究所や技術開発部などの現場の様子を反映しているのだと思うが、このリアルさで深く印象に残っている。

 これを読んで以来、私はいつかこの小説のような場面がやってくることを信じて、数表の暗記は無理だからせめてクリアに数表を読み上げる「読み上げ能力」の研鑽を欠かさなかったものだ。コンピューターのお陰で数表の必要性が減じた今となっても、実はこういう場面は結構ある。科学実験の現場では数字を読み上げて受け渡しする機会は無数にあるし、第一、宝くじやお年玉付き年賀ハガキの当たりくじの番号の照合、これがけっこう、デジタル化するわけにはいかないものなのである。


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