ねこの幽霊

 死んだ瞬間、視界がどっと広がって、やがて遥か高みから地上を見下ろしていることに気がついた。ああ、これが死というものか、と、それまで考えてみもしなかった想念がわきあがってきて、それからさまざまな疑問が心に浮かんできた。自分、今見下ろしているあの白黒ぶちの猫が自分だったのか、自分はそのことにどうして気がついたのか、そもそもこのような複雑で抽象的な思考を操る能力がなぜ自分に与えられているのか、猫ではないのか、自分は、否、猫だったというべきではないか、そんなことはどうでもいいのだ、とにかく自分は死んだのだ、死んだ猫だ、ではこの自分はなんだ。言葉を操って複雑な思考をしている自分はなんだ。

 そうしたとりとめもない堂々めぐりの思考を続けたのち、ともかく、なにやらふわふわと頼りなげではあるものの、ここにこうして思考する自分がいる以上、それ以上のことは詮索すまいと思い定めて、辺りを見回した。竹やぶの中である。竹やぶ竹やぶと思い返すうち、ゆっくりと記憶めいたものがかれの存在によみがえってきたようだ。ここは、「テポドン」などというとてつもない名前を付けられた自分が暮らしていた家からほど近い、川っぺりの竹林であるらしかった。テポドンであった自分は、ここをなわばりのひとつとしていた。十五歳を超える牡猫であった自分は、自らの小さな帝国、自分の家と、この竹やぶ、その間の猫の額ほどの菜園を往復しつつ日々を暮らしていたものである。猫は死期を悟ると人間達のもとを離れるというが、自分もまた、ひと気のない竹やぶを自らの死に場所として選んだというわけだ、と今は幽霊になったテポドンは思った。ううん、実に俺って、猫。筋金入りの猫。

 さて、いつまでもここでこうしているわけにはいかない。いかないのだろうか。わからないが、いけないような気はする。暗いのか明るいのか、寒いのか暖かいのか、さらには空腹なのか満腹なのかさえよくわからないことに気がついて、初めて自分が幽霊であることが少し理解できたような気もする。なにしろ自分はどうにも死んだ猫なのである。もう、暖かい縁側で昼寝をすることはあるまい。毛と毛の間に差し込んでくる冬の弱い日差しの感覚に目を細めることも、猛暑の中の見回りの折り、自分の毛の、背中にある黒いところだけが熱くなって、土の上ごろごろと転がって冷ましたりすることも、日曜の朝なかなか起きない家人達の寝室を、餌をねだって廻ることもないのだ、と思う。そういういわばつまらない、いかんともしがたいことをいちいち思い出しているうちに、何日も経ったような気もするし、一瞬だったような気もする。

 ともあれ退屈した。自分の体、もはや自分のものではなく、自分の帝国の(いや、帝国だった場所の)臣民達に下げ渡されるべきものとなった自分の体を離れて、ともかく家の方に行ってみることにする。意識をかたむけると、彼は空中にあった自分の「視点」がゆっくりと漂い、竹やぶから出て隣の家へと向かうのを感じた。視界が開けて、一戸建ての立派な住宅がある。ここが、彼の家だった場所だ。移動し始めた自分を感じつつもその速度にはややじれったさを感じる。それとも、思考の速度と抽象性が飛躍的に増したことの影響だろうか。なんというか、幽霊になってさえ、まだ学ぶことは多いようである。自分という存在が、動物という範疇を越えて超自然的な存在になったことは感じるものの、それがどのような能力を持ち、あるいはどのような能力を持たないのかということは、幽霊界における先輩のごとき存在、あるいは漠として想像していたような気がしないでもない「天からの使い」なるものが現れない以上、自分で少しずつ学び取っていくしかないのであろうと思ったりしている。

 そうこうしているうちに、といっても時間の感覚は既にないのだが、一連の一貫性があるようなないような思考のあと、彼の存在は自分の家だった場所に着いた。その木造モルタル二階建て築二〇年という建物を見ていて、それがどうして自分の家なのかテポドンはちょっと疑問に思う。自分の飼い主の家ではないか。生前はそんなことは思ったことなどないような気もするのだが、自分の家であるという思考と、自分の飼い主達の家であるという思考がぶつかり合って、テポドンは幽霊らしくもなく、目まいを覚えたりする。いや、幽霊らしいのだろうか。幽霊とはなんであれ思い悩むものかもしれない。ともかく帰ろう。自分の、家に。

 テポドンは行儀のいい猫なので、かりかりと勝手口の扉をひっかくと中から家人が出てきて扉を開けてくれることを知っている。大抵は、マサエさん/おかあさんという、中年の気の優しい女性なのだが、フミハルといういつも笑ったような顔をした高校生の子供であることも多かった。ツトムさん/おとうさんであることは、一度か二度しかなかったように思う。ツトムさんは、テポドンのことを、あまり好きではない。しかし、幽霊になった猫は、勝手口に廻ろうとは考えなかった。引っ掻くべき爪が彼にはもうないからだ。彼は、人間達がよくそうしていたように、あるいは、勝手口を引っ掻いて三十分ほども待っても誰も出てこなかった場合にそうするように、玄関に向かった。

 玄関は開いていた。幽霊として、自分には壁抜けの能力が新たに備わっているのではないかと少し思っていたテポドンではあったが、その能力はどうやったら使えるのだろうかと悩んでいたところでもあり、玄関の扉が開いていたことは幸運だった。幸運だったといいながら死んで幽霊になったことが絶対値においてすさまじいマイナス運である以上これくらいの幸運がなにほどのことがあろうかなのであるが、運不運が相対的なものである以上やはりこの小さな偶然は幸運なのであろう。彼は開いた扉から堂々と入っていった。中は、暗い。暗いから中の様子がよくわからないとかそういうわけではなく、単に頭上の電灯が灯っていない状態を指して中が暗いであろうという知識をもって暗い。幽霊というのは、いちいちややこしい。

 入った玄関から、すぐのところにある階段を上がり、二階に向けてテポドンの意識は上昇してゆく。なんであろうか。どうしてこちらに行こうと自分はするのであろうか、とすこし疑問に思うテポドンではあるが、考えてみれば別に目的地があるわけではないのである。彼は、部屋の扉の前で移動をやめた。扉には「文晴はいません。侵入者は排除します」と書いてあるプレートが下がっている。なにが「排除します」であろうか。と、部屋の中から、声が聞こえた。複数の人間が、中で会話しているようである。小声であるせいか、彼には何を言っているか聞こえない。小声とか、聞こえないとか、幽霊である彼には関係ないような話ではあるのだが、とにかく聞こえない。

 そこにどれくらいそうしていただろうか。いつ果てるともしれない会話がふと止んで、がちゃりと扉のノブが廻った。中から出てきたのは、ツトムだった。慌ててテポドンはツトムを避ける。彼にうるさくすると、ときどき、とても機嫌の悪いときだけだが、蹴られてしまうことがあるのだ。ツトムは、頭をふりふり、困ったような顔をして、テポドンがそこにいることにも気づかないまま、階段を下りてゆく。ずいぶんと、顔色が悪い。

 テポドンは、開いたままの扉をくぐり抜けて部屋に入った。猫であったテポドンが、よく出入りしていたフミハルの部屋である。四畳半ほどの広さで、西に大きな窓があるので冬の午後は非常に暖かいのだ。その窓の下に置かれたフミハルのベッドの寝心地はあまりよくなかったが。そのベッドに、今、マサエが突っ伏して寝ている。
 寝ている。いや、寝ているわけではない。マサエは泣いているのだった。既に感情の働きらしきものがほとんど消えうせてしまったような気がしていたテポドンではあったが、自分のことをよく世話してくれたマサエが泣いているのを見て、なにか、何と言ったらいいのか、記憶がよみがえってきたような、いや、記憶を辿るいとぐちを見つけたような、そんな気がして、マサエのかすかに嗚咽する背中に触れる。と、マサエが、はっと身を翻して、彼の方を見た。
「文晴? 文晴。そこに、いるの」
 彼はこたえるすべを持たない。マサエは、しかし、確かに彼の方を見ているのである。
「文晴、文晴なのね。ああ、おとうさん、おとうさんっ」
 マサエは、辺りを見回し、そこにツトムがいないことを知ると、部屋を駆け出していった。今確かに感じた、文晴の気配を、どうやって夫に伝えたらいいのか悩みながら。

 テポドンは、出ていった正枝を見送って、学習机の椅子に腰をかけた。そこには、彼の生きていたころの全てが、そのまま残されていた。テポドンは、自分が大きな勘違いをしていたことに気がついた。自分は、猫ではなく、文晴の幽霊だったようだ。


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