考えている。幽霊である猫、テポドンは、つくづくと考えている。ほかに取りたててすることもないのであるから当たり前ではあるが、幽霊になって、自分が、どうも人間フミハルでもあることに気がついてからのテポドンは、フミハルの部屋の一角で、よくそうやってじっと考え事をしている。
結局、分からないことは一つだ、とテポドン、または文晴は思った。ほんとうのところ、自分は誰なのか、自分は何なのか。そうだ、たとえば今、この自分の思考が日本語で行われているという自信はある。そもそもかつて高校で仮にも科学部の部長などしていた理系な文晴には、そういう筋道立てた思考は得意分野であるはずなのである。そんな彼も今では幽霊部員になってしまったのだが。ほら日本語だ。この、今自分が行っている言語的で人間的な思考からすると、自分はやはり猫などではなく文晴なのだろう。しかし、かといって自分が百パーセントピュア文晴かというとそうではない気がする。自分がこの状態での存在をはじめた場所は、確かにテポドンのなきがらの上空だったし、テポドンだったころの記憶も、わりと自分の中で大勢を占めているようにも思うのであるにゃー。
さしたる決め手もないまま、テポドン/文晴は、自分は、そんなものがあるとしてだが、猫と人間が混ざった幽霊、ということになるのだろう、と結論を出した。そう考えてしまえばいろいろなことがすっきり説明できるのだが、文晴とテポドンが、たまたま同じ時期に亡くなり、その霊的存在というかアイデンティティが交じり合ってしまったのではないだろうか。そんなことが起こりえるのか、どうだろう。わからない。しかし、それを言えば、幽霊となってこの世に残るということそのものが、なんのことはない起こりえるものだと初めて知った文晴なのである。つまりは、わからない。わからないが、間違っていてもどうということはないので、まあこれで行くことにしよう。よろしい自分はテポドン文晴だ。うむ。リングネームのようである。
幽霊なので、時間の感覚はない。つらつらとテポドンの記憶や文晴の思い出をたどったりしていて、ふと気がつくと、朝だったり、夜だったり、昼だったりする。マサエさんはその後も時々文晴の部屋にやってきて、簡単な掃除をしたり、ベッドに座って考え事をしたり、窓から外を眺めていたりするようだ。ごくたまにだが、ツトムさんもやってくる。テポドン文晴は、部屋の隅に丸くなって、なるべく彼らにかまわないでおこうと決心している。かまっても、なんともどうにもならないからだ。最初にマサエさんに触れたときのように、彼らがこちらの気配を感じて驚く、ということも二度となかった。あれは、非常にまれな、たまさかの出来事だったのかもしれない。
自分が、この存在でなくなるのはいつのことだろう、とすっかり地縛されたような格好になったテポドン文晴は、見慣れた、だがやけに近くにある部屋の天井を見つめながら、時々思う。もちろん、何度か試してみて、自分がふわふわと天井や床を抜けて移動できるということは分かっているから、本当の意味で「地縛」されているわけではないのだろう。しかし、どうも遠くには行けないようだ。あまりそんな気も起こらない。幽霊になって以来、あまりなにかをしたいとか、しなくてはいかんとか思うことは少なくなってしまった。ただ、ぼうっとして、あるいは自分の部屋で、屋根の上で、家庭菜園の上空で、猫のように日々を過ごしているだけである。
幽霊というのは、なにかこの世に心残りがあるから成仏できないのだ、と虚心に考えてテポドン文晴は思う。心残り。さて心残りがあるかどうか。猫のテポドンにとっては、猫生は精いっぱい生きた末の悔いのないものだっただろう。たぶん。そんな気がする。では、文晴にとってみればどうか。大学受験を控えて、これから、というところであり、そこから先にあったはずのクライマックスが、録画の途中でなくなってしまったビデオテープのように、突然に途切れて、もうない、ということはやっぱり心残りだろうか。文晴の心残りが一人と一匹を成仏させないでいる、なんてことも考えられないか。それを果たすまで、自分はずっとこのままなのではないか。
そして、そこで思考はいつもからまわりをはじめるのである。もともと文晴には今のところさして会いたいと思うような友達も恋人もいなかった。特に未来に大望を抱いているわけでもなかった。その意味では、あまり思い残すところもない人生だったのだ。自分がなぜ死んだのかも、思い出せない。なんとなく事故だったような気がするだけである。そんなだから自分を殺した奴に復讐して、などという気持ちも起こらない。心残りが思い出せない場合は、どうしたらいいのだろう。
こうして、いつも同じところへ戻ってくる思考を繰り返して、ついに最後にはなにも考えることがなくなってしまえば、もしかしてその後は、自分という存在があってもなくても同じことになるんだろうか、とあるときテポドン文晴は思った。といって、それに恐怖を感じるかというと、そうでもない。このあたりは、猫のテポドンの意識が強く働いているところなのかもしれない。一人でいることは特に苦にはならないし、そうなればそれだけのことかと思ったりもする。だいたい、幽霊として生まれたからには何事かをなさねばならない、というようなものではないだろう。
とにかく、まあざっと、そんなことを考えながら、テポドン文晴は、害をなすでもなく、善をなすでもなく、猫が日なたでいつまでも昼寝をしているような、そんなふわふわとした状態で、クニモト家の二階の一室に存在を続けた。
それからどれくらい経ったか、久しぶりに考えるのを止めて、周りを見回してみると、季節はまた冬になっていた。長い間、何かを積極的に見ることがなかったような気がする。と、なぜか感じるのだが、誰かが自分を見ていた。見られている見られている、と視点をひるがえして、テポドン文晴は現世を眺めた。ああ、あれか。さて自分を見上げてきょとんとしている、あの生き物はなんだろう。どうも、長い間考え事をしていたせいか、寝ぼけたような状態である。あ、そうか、赤ん坊だ。人間の赤ん坊だ。赤ん坊だがなぜだ。ああっ。
ひゃあ。と、幽霊らしくもなくそう思ったテポドン文晴は、まじまじとその赤ん坊を見つめた。いつのまにか、子供部屋に改装された自分の部屋に、赤ん坊が一人寝かされているのだった。ツトムさんマサエさん、がんばりましたか。いやそりゃまあ、若くで結婚したふたりだから、まだ子供ができても不思議ではない歳だけれども。うーん、十七歳にして、弟ができるか。なんともなあ。
なんともなあ、といって、悪い気はしない。あたりにさまざまに置かれたオモチャやお祝いの品から、どうも、この赤ん坊が自分の、弟ではなく妹らしい、ということがわかった。枕元に名前が書いてある。チハル。そしてどういうわけかさっきからずっと、チハルはテポドン文晴のほうを見ているのだった。天井あたりに浮かんだまま、テポドン文晴が、にやー、と笑ってやると、チハルもこちらを見て笑った。うん、死んでからずっと笑ったことがなかったなあ、というよりも、幽霊ってのは、笑えるんだな。笑いながら、赤ん坊のチハルは、テポドン文晴に向かって、手を差し伸べる。見ていると我慢しきれなくなって、彼も自分の存在を、チハルの方に向けておずおずと差し出した。それは、彼の手だったり、しっぽだったり、どちらだか自分でもわからなかったりしたが。
そして、チハルは、赤ん坊としてできる数少ないことの一つを行った。差し伸べられた彼の手を、その小さな手でぎゅっと、握ったのである。彼女に握られたそこからテポドン文晴が感じたのは、とてつもない、暖かさだった。
なにもかもがその一瞬に起こった。テポドン/文晴は、空中に染みついたような自分の存在が、とけてほぐれて消えてゆくのを感じた。そうか、そうか。結局自分は、ツトムさんとマサエさんが心配だったのだなあ、とテポドン文晴は初めて気がついた。日だまりでおもいっきり伸びをするような、そんな爽快な感覚だった。そうか、自分はそうか、世話をしてくれた/育ててくれた夫妻に、そうか。そんな思いが、端から空にとけて、とけて、なくなってゆく。
そうして、ゆっくりと薄れて消えてゆくのを感じながら、テポドン文晴は、自分がチハルの子供として生まれかわれたら、幸せだなあ、と思った。いや、チハルの飼い猫として、でも、まあ、いいことにしよう。猫というのも、これはこれで、そうだ、悪くはないものだ。