「こだわり」という言葉をプラスのイメージで、「こだわりの逸品」などというふうに言う使い方は、ここ数年ほどで一般的になったようだが、それでも違和感を感じる人は多いようだ。本来、こだわるという言葉は「体裁にこだわる」というふうに、あまり良くない意味に使われるものであって、なにかを思い通りに仕上げるために、材料、製造工程などをさまざまに吟味する、というような建設的な意味で、たとえば「水にこだわったコーヒー」などと使うのはおかしい、というのである。私もこれはまったくその通りだと思うのだが、ある意味、そうした枝葉末節のことに拘泥してまで「味」などという刹那的な快楽を追うというみずからの行為を卑下して、へりくだってこの言葉を使っているのだとすればこれは正しい用法なのだと思う。責められるべきは、他人のこういう精神のあり方を「さすがにこだわって作ってらっしゃいますね」と評価するような行為なのだろう。言われたほうは、怒ったほうがいい。
というわけで「大西科学における最近の研究内容」、私もあまり使っていない略語で「大最研」であるが、今回で第200回を迎えることになった。某所で「科学雑文」などと名乗りながら最近はファンタジーなどに手を染めてしまい申し訳ない気持ちでいっぱいの私だったりするが、そういう質的な変化はともかく、量的な問題に関しては、ありがたくももったいなくも私などの文章を読んでいただいている方々にとっては、文章の頭についている数字が二百回だから、だからどう、ということはないのだから、こんなことを記念に思っている私はやはりこだわっているのだろう。こだわりである。わかっているならやらなければいいようなものだが、ここはせっかくの機会であるとご免をこうむって、百回のときに続き、なぜ私はこんな文章を書くのか、というようなことについて、ちょっと考えてみたいのである。
これが一般に通じる普遍的な解釈であるというわけではない、ということを前置きしておいて、「雑文」というあるカテゴリーの文章について、私がどういうつもりで自分の文章を指すのに使っているのかについて一言で言うと、雑文は、私にとって雑談である、というものである。あるいは「雑談」を文章にしたものが「雑文」ではないか、と言ってもいい。
いわゆる「雑談」というのも、これで奥が深いものである。たとえば前触れもなくこんな話を持ちだしたとしよう。
「友達がインコを飼っていてさあ、いくらしつけても部屋の中でうんちをするんだって」
「ふうん、それで」
「それだけ」
ぶっちゃけた話、こんな会話にあなたは耐えられるだろうか。無理だ。私には無理だ。しかし、信じられないことなのだが、身の回りにはこういう人はけっこういる。雑談というものができないタイプの人なのである。いや「何だって雑文と名乗れば雑文になる」と同じような意味で、何だって雑談といえば雑談になるわけだが、これでは、よほど親しい友人ならともかく、あまり親しくない、会ったばかりの人と会話がはずむというわけにはなかなかいかないだろう。もう少し、面白おかしく話して聞かせるという技術を働かせなければならないのは明らかである。
もちろん、私だって、疲れていたり、いいネタがなかったり、単に能力が不足していたりして、普段話していて面白く話を作る、というのはなかなか難しいのだが、もしこの話をもとに、時間をかけて、十分に膨らませてから話せばいい、というようなことになると、たとえば、こんな感じになると思う。
私の古い友達に一人、鳥が好きだというやつがいる。トリが好きだトリが好きだとうるさく言うものだから、鳥肉が好きなのかというとそうではなく、いや、鳥肉も好きなのだが、どうも鳥という動物、鳥類全般が好きということらしい。しかし、だいたい鳥類という生き物、足はよく見れば恐竜のようで怖いし、「クチバシ」などという、あれで目を突っつかれたらひとたまりもない凶器がもれなく付いてくる恐るべき動物なのである。蓼食う虫も好きずきとは言うが、その辺をわきまえているのかどうかよく聞いてみたいものだ。
さてこの男、最近インコを一羽部屋で飼いはじめた。男の一人暮らしに動物を飼うというところからしてすでに彼の鳥好き加減が半端でないものを感じる。布団で一緒に寝たりしているのかもしれない。鳥のいる生活、とまあそういうふうに書くと牧歌的だが、なにしろ鳥カゴに入れているのではなく、普段は部屋の中で放し飼いにしているのだそうで、所詮鳥はトリ、そこら中でこいつが粗相をする。敷きっぱなしの布団の上でやる。コレクションしているビデオカセットの上でやる。テレビの上の通風口などというウィークポイントにむけて特に柔らかいのをやる。なにしろインコである。ウグイスならまだ救いがあるような気がするがインコなのだ。地上の動物でいうと子猫か大ネズミくらいの大きさがあるわけで、彼の1DKのアパートは相当大変なことになっているのであろうことは想像に難くない。。
彼の鳥好きが尋常ではないというのはこんな感じでちゃんと日々を送っていられるというところからもうかがえる。結構これで満足しているのだろうが、時折、部屋着のままコンビニに行ったりすると、周りの客が「ゑっ」という、明らかにワ行のヱの音がする目で彼を見て、すっとコンビニを出ていってしまうのだそうである。そういうとき彼は思うのである。ああ、鳥だけに、またトリ残されてしまった。
どうだろう。もちろんこれは全て今考えた創作なのだが、これくらいやればさすがに見知らぬあなたでも「ふうん、それで」などという反応ではなくて(もしそうならそれはそれで凄いが)、雑談に乗ってきてくれることだろう。そういう、誰にでも通じる雑談、というものを目指すことと、雑文が目指すところは基本的に同じではないだろうか。
これまで、どうにかこうにか200本書いてきた私の雑文には、もちろん上で書いた「雑文=雑談」にあてはまらないようなものもある。まったく小説の形態をとっているような文章は、まさか普段行っている雑談がルーツであるとはいえない。しかし、言ってしまえばこれは、同じ主題を料理するに当たって、筆者である私が語る、という形ではなく、小説中の架空の主人公が語る、という形にしたほうが面白い、と思うからそうしたまでのことなのである。
たとえば、「逆ギレ道」という話があって、これは寂れた空手道場に通う青年の口を通して語っているわけだが、主題ということでいえば、これは断然、「逆ギレ」というのは一種「攻撃は最大の防御」という真理を突いているのではないか、という物の見方、話の骨格を、いかに読者の方に伝えるか、ということを目的として書かれたものなのだ。そうだったのである。私がこれだけを語れば一行で済んでしまうところだが、これを「奥義」として口伝された青年が戦いの中でそれに気づく、というストーリーの中でこれを描くほうが、読む方もきっと面白いと思ったのである。そうだったのである。
雑談は、相手を楽しませることを目的としている。少なくとも私はそうだ。うまく伝えることができた、ウケた、と言うようなときには自分も楽しいのだが、楽しいのが自分だけ、ということはありえない(愚痴を聞かせているのではないのだから)。だから、私にとっての雑文も、書いていて楽しいのはもちろんなのだが、基本的に、読んだ人を楽しませたいと思って書いているのである。愚痴を語って聞いてもらい、共感してもらって、慰めてもらえるというような、そんな会話の形態はあるわけだし、それもまた文章と読者という関係を築くことができるのだとは思うが、やはり私は、読者の方と雑談をしたいと思っているのだ。かつて私が経験した、三年間のばか騒ぎのようだった高校生時代、毎日飽かずに友人達と無駄話をしたあの空間を再現したいのである。それが私の雑文の本質であり、私にとっての存在意義なのである。
こと、こういうことになると、うまくまとめられたかどうかまったく自信がない。こんな偉そうなことを書いてしまってよかったのだろうかという気さえしている。ともあれ、これからも、更新を続けていきたいと思っております。読んで下さっているみなさまにおかれましては、これまで通り、私の雑談につきあっていただければ、これに過ぐる喜びはありません。ありがとうございました。これからもどうぞよろしくお願いいたします。