高度四千五百米。地上はすでにはるかにかすんで遠い。支えるものもなく虚空にぽかりと浮かぶ「峰越丸」の見張り台に立った俺と弟の六郎太は、強く輝く青空の奥を見つめ続けたせいでとめどなく流れてくる涙にときおり目をぬぐいながら、それでも空を眺め回す目と首の動きを止めなかった。今年に入って五回目の浮鯨撃ち。空振りだったこれまでの漁に続き、今回も空荷で帰郷するようなことになれば、今まで苦労して使わずに済ませてきた蓄えに、いよいよ手を付けなくてはならなくなる。俺の妻と息子のためにも、秋に祝言を挙げる六郎太のためにも、今日こそは絶対に浮鯨を、見つけなければならなかった。
峰越丸は「浮船」とよばれる空飛ぶ船だ。俺達の先祖達によって使われてきた、捕鯨船の赫々たる血筋、その最後に列する和船型の浮船で、船齢は十二年。祖父や父が乗っていた「逆帆丸」に比べ、常備浮珠数で二倍、到達高度で一・五倍にも達する、三人乗りの浮鯨撃ち船だ。幸運に恵まれて四頭もの浮鯨をしとめることができた明治七年に、町の浮船大工に発注して建造したもので、峰越丸はまさに日本型浮鯨撃ち船の到達点といっていい美しい船だった。彼女にとっての不運は、時代が既に個人の浮鯨撃ちたちのものではなくなりつつあることだったろう。近年異様な高まりを見せている浮珠需要とともに大阪や東京の大浮鯨漁組合が導入しはじめている組織的な漁法のおかげで、零細な浮鯨撃ちたちの仕事が危険に引きあわないものになりつつあるからだった。
「兄貴」
と、沈黙を破り、厚い襟巻きの中で六郎太がくぐもった声を上げた。俺は六郎太が指さす方向を見る。なにも見えない。いや。視界のはじのほうに、にじむように見える、黒点。あれは。俺は慌てて首から吊った遠眼鏡を、目に当てる。
「見たか」
子供の頃からの癖で、六郎太は空では極端に言葉を惜しむ。俺はかすかにじれったげな六郎太の声を聞きながら一心に遠眼鏡の中を見つめた。目に映るただ青いだけの、ただ明るいだけの空。二度と発見できないのではないかという一瞬の恐怖のあと、奇跡のように、ぼんやりとした姿が視界に入った。
「おう、いま、見えた」
遠眼鏡から目を離さず、六郎太に向かって手だけを降って見せる。
「浮鯨だ。間違いない」
二千米ほどこちらが劣位(低空)というところか。水平距離も、五粁はある。俺はひそかに安堵の息をついた。まずは幸運だった。これなら十分、峰越丸の限界高度内だ。俺は、傍らの伝声管の蓋を引き開けると、竜御室にいる末の妹、くに、に向かって命令を伝えた。
「くに。浮鯨を見つけた。舳から右舷に三つの方向」
俺はさらに測距儀をとりだし、おおまかに距離と方角を伝える。船内で一人竜御席に座ったくにから、反響によって歪んだ声が聞こえてくる。ようそろ。船尾から火竜(固体燃料ロケット)の炎が吹きだし、峰越丸はいらだたしげにその向きを変えると、発見した浮鯨に向けた加速を開始した。俺と六郎太は慌ただしく浮鯨撃ちの準備をはじめる。まずは距離を詰めて、それから。
空中に浮かぶ巨大ないきもの、浮鯨と、その胎内に産する奇妙な器官「浮珠」の、人間による利用がいつごろから始まったのか、諸説あって判然としない。寿命を終えて地上に墜ちた浮鯨の胎内に残存する浮珠の存在については、ほとんど原始時代からある程度知られていたと思われるが、証拠はない。利用法もわからぬまま、一種の宝物として扱われていた形跡が、律令時代のいくつかの書物にある。
浮珠は、どういう原理かいまだに人類が知ることができない何らかの力によって、地上と反撥する性質を持っている。反発力の強さは、浮珠一つにつき地上高度で二百五十瓩重。そう、峰越丸も、他のあらゆる浮船も、船内にこの浮珠をおさめることによって、重力のくびきを離れ、空を飛ぶ能力を得ているのだった。浮鯨から大量に採取される浮珠は、人間には作り出すことができない貴重なものである上、少しでも傷つけられるとその神通力を失うため、船体と、またお互いに触れ合ったりしないよう、滑らかな絹布の袋に包まれて、浮船の上部に作られた絹室におさめられている。
大規模な浮鯨の産地として、ほとんど世界唯一の列島を領土としている日本と、浮鯨のかかわりは、浮鯨撃ち船が作られる室町期までは弱いものだった。浮鯨撃ち船のおかげで浮珠の安定した供給が始まるまで、浮珠を得るにはたまさかに地上に墜ちる浮鯨に頼らざるを得なかったからである。
秀吉が麾下の軍勢を高速機動させるにあたって、浮珠をつめた絹布に足軽達の武装をつり下げ、荷駄に引かせたという記録が残っているように、軍事への利用は中世から始まっていたが、続く徳川氏による「浮珠取締令」を初めとする、いわゆる鎖国令によって、その利用は二百年の間、国内の陸上輸送に限定され、また、国外への輸出も禁止された。浮珠を大量に消費する、大規模な航空輸送や軍事への積極的な利用の再開は、幕末の、薩摩をはじめとする雄藩による自主的な改革を待たねばならなかったのである。浮鯨撃ち船のように完全に空に浮かぶほどの個数を使わなくとも、あらゆる輸送手段への福音となる「重量軽減」の役割を果たすこの浮珠は、貿易、特に陸運に欠かせない重要な資源として、明治維新後の近代になってやっとその有用さが全世界的に知られるようになったのだ。そして、今の日本にとって、浮珠は近代化のための外貨を稼ぐ、かけがえのない資源となっていた。
しみのようだった浮鯨が、峰越丸の飛行にしたがって徐々に視界に大きく見えるようになってきた。浮鯨は、この距離だと空に浮かぶ巨大な木ぎれのように見える。下面が茶色、上面が緑色の、さしわたし百米はある浮鯨は、どちらかというと木や草などといった、植物にちかい生き物なのだ。その胎内の「浮袋」に無数の浮珠をおさめた浮鯨は、光合成によって空気中の窒素や炭素を固定しながら、成層圏の永遠の青空の中で、成長し、分裂し、繁殖している。そして、寿命が終わりに近づき、浮力を失ったわずかな個体だけが、こうして峰越丸と酸素瓶なしの乗員に到達可能な六千米程度の高さまで降りてくるのだった。
「左に、一つ半。……ひとつ戻せ。……右に一つ」
俺は、浮鯨と峰越丸の位置関係を確認しながら、伝声管のむこうのくにに向けて、細かく指示を出した。六郎太は船の捕鯨砲に取り付き、砲の照準を通して浮鯨を見ながら、だまってじっと間合いを計っている。剣呑な刃がついた銛を発射する、鈍色に光る捕鯨砲。
「そこで、止め。上昇、三つ」
がくん、と衝撃が見張り台まで伝わってくる。峰越丸の底、錘室から、釣り合い錘となっていた砂袋が三つ、落とされたのだ。浮珠の浮力は、高度とともに減少する性質があるので、砂袋を落として船体を軽くすると、新たな釣り合い点まで上昇し、そこに留まることになる。砂袋三つ分の重量減少によって新たな浮力を得た峰越丸は、風を切って上昇を始めた。高度がみるみる増し、空気が身を切る刃となって俺と六郎太に襲いかかる。薄くなる空気のせいで頭が痛み、狭窄する視野の中にみるみる浮鯨の姿が大きくなる。俺は、釣り上げられた魚のように息を荒くして必死で意識をたもとうと努めながら、釣り合い点を過ぎ、勢いで上昇を続ける船の動きを読む。最上点、船が静止した一点で、
「いいぞ、撃て、六郎太っ」
俺は号令を出し、六郎太の砲技術に全てを任せた。見張り台上空いっぱいに覆いかぶさり、峰越丸から逃れるようにゆっくりと動く――風に流されているだけなのだが――浮鯨に向け、六郎太はひと呼吸だけ、念仏を唱える間を置いた後、撃鉄を引き絞った。軽い爆発音がして、尾部に頑丈な綱を引きずりながら、空に逆さまに落下するような勢いで銛が飛んでゆく。直径五十糎ほどもある太い銛の中には一個の浮珠がおさめられており、銛と綱の自重を相殺するように作られているのだった。みるみる視界の中で小さくなってゆく銛が、浮鯨の体に吸い込まれて、そこで止まった。ばらばらと浮鯨の体から破片が降ってくるのが見える。
「命中っ」
六郎太はそう言って俺に素早くうなずいて見せる。その体に死の銛を突き刺されたのも知らぬげに、恬淡として同じ高度を飛び続ける浮鯨と、勢いを失い、降下をはじめた峰越丸との間の距離が再び開き始め、綱がぴんと張る。この瞬間こそ船頭の腕の見せ所である。もう一本銛を撃ち込んで固定を十分とするかわりに浮鯨の胎内のいくつかの浮珠を失うことを覚悟するか、一本の綱にすべてを託して降下をはじめるか。俺は、後者を選んだ。熟練した捕鯨砲撃ちである六郎太の銛は、浮鯨の皮膚の一番頑丈な部分、「のど」と言われる、鯨体下部の複雑な吸気管のそばに、しっかりと突き刺さっていた。
「よし、降下だ。浮珠切る」
空気の薄さに全身がしびれたように感じる。かすむ意識をごまかしながら、そう伝声管に伝えておいて、俺は腰の空夫刀を抜き、その鋭い刃で、峰越丸の甲板に「吊り上げ」られていた浮動浮珠に軽く切れ目を入れた。これは、船内にある常備浮珠とは別物、上昇下降の調整に使う分だ。張りきっていた絹布の袋が、たちまちしぼみ、浮力を失う。
「ひとーつ」
「ひとつ」
伝声管の奥から復唱するくに。峰越丸と浮鯨を繋ぐ綱の張りが強くなる。頭が割れるように痛い。もうひとつ。
「ふたーつ」
「ふたつ」
今度は右の浮珠袋。変化はない。次でだめなら、せっかく吊り上げた獲物を傷つけなければならなくなる。俺は、奥の浮珠袋に空夫刀の切っ先を当てて横に払った。刀が重い。
「みーっつ」
「みっつ」
恐怖以外のなにものでもないわずかな時間が過ぎて、俺はようやく浮鯨ごと船体が降下をはじめているのを感じた。総重量七百五十瓩分増えた新たな重みと、銛によって傷つけられた浮鯨内の浮珠の分、浮力を失った人工物と自然物は、地面に向けてゆっくりと落下をはじめたのだ。突発的な高度減少に対抗する生物学的な反応として、浮鯨からばらばらと老廃物が捨てられるが、降下の勢いは止まらない。大丈夫だ、おそらく、あと二、三の浮珠を破るだけで、地上に戻ることができる。俺は、荒い息をついた。息の間からも、みるみる高度が落ちてゆくのを感じる。
「高度、よーんせん米ー。こーかちゅーう」
と伝声管から響く、くにの能天気な声。冷たくしびれてきっていた手足に戻ってくる酸素と暖かみと充実感。ああ、これで、いましばらく。いましばらく俺達の一族は生きてゆける。峰越丸の三八頭目の獲物によって。その胎内にある浮珠によって。
「兄貴、大漁旗だな」
と、ようやく緊張を解き、こちらににやりと笑いかけた六郎太が言った。そうだ。大漁旗を掲げるに値する獲物ではないか。俺は空を、浮鯨と峰越丸を繋ぐ綱を見やった。そうだな、大漁旗。俺達の赤い大漁旗をあげよう。そしてそれは遥か四千米の地上に棲む者共にも、よく見えるに違いないのだ。