カオスの巷で

 多くは語れないある経緯によって、私は映画「ジュラシックパーク」を弟と一緒に神戸の映画館で見た。この映画は端的に言うと「恐竜が出てきて人を食う」という話である。確か、見終わったあと弟と「食われてたな」「ああ、食われていた」という会話をした。
 まあ筋はどうでもよい。この映画の中に「バタフライ効果」という言葉が出てくる。ストーリーの本筋にあまりにも関係ないので見た人でもひょっとしたら覚えていないかもしれない。劇中で、話の流れ的に登場する意味があまりない数学者によって、いかにもとってつけたようでその後の展開にからんでこない説明がなされるので、忘れられてもしかたがない。原作を読んでいないので偏見なのだろうとお断りした上で、しかしこれは原作者マイケル・クライトンの「せっかく取材した科学的知識を取り入れることのヘタさ」が原因だという気がする。いつだって、そういうヤツなのだクライトンは。

 というわけで、クライトンを見下すべく、科学雑文書きを名乗っている私もバタフライ効果に関する文章を書いてみようというわけである。バタフライ効果とは何か。これはつまり、蝶々のはばたきのような小さな風がつぎつぎに波及してゆき、やがてとんでもない距離にある別の場所での大きな台風になることも、ときにはあるという話である。日本人にはよく「風が吹けば桶屋が儲かる」のことだと誤って説明されるが、厳密に言えば例えとして似てはいるがちょっと違う。大雨や突風のような大きな気象も、最初のきっかけはごくささいなことである、という主張なのだ。原因と結果のあいだに大小関係があって、それが重要なのである。一般には、これが「カオス現象」と呼ばれるものである。

 もう少しちゃんとした説明をすると、カオス現象というのは、初期値のちょっとした違いが、結果に大きく影響してしまうので、最初の状態でもって結果をコントロールできなくなってしまうことを言う。たとえば、単純な式で表せて劇的な結果がでるのでよく引きあいに出されるのは、二種類の、草食動物と肉食動物のような、食べるもの食べられるものの関係にある動物の数である。ある初期値(お互いの数など)を与えてシミュレーションをスタートさせると、最終的には草食動物が食べ尽くされて絶滅するか(肉食動物も次の瞬間絶滅するが)、肉食動物が絶滅して草食動物の天下になるか、その中間、バランスをとってある一定値に落ち着くかのどれかだと思う。ところが、実際にやってみると、初期値を少し、本当に少し変えるだけで、結果はこの三つの間をうろうろと変化して落ち着かない。あるパラメーターが2.0から3.0の間だったらAの結果がでる、というようなことが全く言えなくて、2.0の時にはAだが、2.1のときはB、2.02のときはCでしかし2.01のときはまたBというふうに、どこまで桁数を増やしても明快な関係が出てこないのである。
 机上の計算ならよいが、これでは、現実世界をこのシミュレーション結果を使って予想できないのは明らかである。現実の物理量を、だいたい2mmに切りそろえることはできるが、2.000000000000…mmにすることは絶対にできないからだ。混沌、カオスという名前を与えるのにふさわしい現象だと言えるだろう。

 もちろん、カオスというのは気象予報官や動物学者を悩ませるだけのものではない。我々も日常ささいなことでこのカオスによる影響を受けている。カオスは、目立たないかもしれないが現実の世界に普遍的に存在して、この世の中を不可解に予測不可能に、そして面白くしているのだ。あなたも、自分のした小さな行いが、みるみる大きく波及してゆき、とんでもない結果をもたらすところを目の当たりにしたことがないだろうか。ミニマムにはたとえば「チョキチョキハンド」とかそういったことだが、マキシマムにはヤフー株が一億円のような話がそれである。いやあ、なんで公開当時に買っておきませんかね我々は。

 さて、駅前だ。あなたは、新刊のチェックのためにちょっと本屋に寄りたく思い、乗っていた自転車を停める所を探す。本屋の前の駐輪スペースは放置された自転車で芋を洗うようなありさまであるが…あった。たっぷりとは言えないが、自転車を一台停めるには十分なスペースである。あなたは、自転車を降り、前カゴから鞄を引っ張り出すと、自転車をすき間に押し入れる。が。
 かすかに、ハンドルが何かに触れたような感触は確かにあった。それが識閾に上るかどうかという一瞬ののち、隣にいた自転車が「あぁ、めまいが」とかなんとかいうセリフが似合いそうな動作で、横倒しに倒れそうになっていることに気がつく。いかん、いかんがしかし、今手で持っている鞄の中のノートパソコンを無視して隣の自転車を助けに行くべきかどうかいやまてこれを壊したら最悪三〇万円という損害がぐはそれはいかん余計いかんいかんがしかし、などとあなたの脳が一回か二回空転するのを物理法則は待ってはいない。二台隣の自転車にもたれ掛かった隣の自転車はそれを押し倒し、二台分になった重量と衝撃があまりにも容易に三台目の自転車を押し倒すころには、もうノートパソコンを犠牲にしようがこの身を投げ出そうがお母さんが呼ぼうが犬が吠えようが止まらない。がしゃがしゃがしゃがしゃと将棋倒しに隣の自転車が倒れてゆき、ついには列の端まで十台くらいが全て倒れてしまう。

 こういう時というのは「あーあーぁーぁー」としか声が出ないものである。まずもって自分の不運に呆然としてしまうのだ。衆人環境で誰が見ても苦境にあるというのはそもそも恥ずかしい上に、この後が面倒になったのは分かり切っていて、かつ突然コントの登場人物にされてしまった絶望感に、まともな大人なら意識を飛ばしてしまいたくなるものなのである。
 これが狭いスペースに乱暴に自転車を突っ込んだ結果としてなら、もちろん因果応報というものだが、地面の傾斜とか隣の自転車の安定性などの条件が整っていると、本当にちょっと触れてしまっただけなのに、ドミノ倒しを引き起こしてしまうことがあるものだ。

 しかも、リカバリはなかなか容易ではない。単に起こすだけなら面倒なだけだが、自転車というのはこうして倒れると、お互いむちゃくちゃにもつれてしまうことがあるのだ。意味もなくナナメ上方の物陰、隠しカメラのある辺りを睨んで「これがお前のやり口かっ」などと叫びたくなる。ハンドルのような動く部分があるのがいけないのだと思う。一台ずつ必死の力で引き起こそうとしてもびくともしない、押しても引いても、蹴っても殴ってもがっちり食い込んで動かない自転車を見ると「もういいっ、死ぬまでそうしておれ」と言い残してその場を立ち去りたい衝動に駆られる。もちろんそんなことはできっこないので、ちまちまと十数台の複雑にからんだ自転車の知恵の輪を解きほぐさなければならなくなるのである。そうしているうちに安定感の悪い自転車がまた貧血で倒れそうになっていたりして、あなたの血圧はさらに上がる。ケリの一発でも入れてやらないと収まらないが、さすがに、誰が見ているかわからないし、そんな乱暴なことをしてさらに被害を拡大してはたまらないので、あなたは耐える。

 で、そこに私がやってきて、言うわけだ。
「それは、バタフライ現象といって」
 振り向きざまにあなたが私の腹にいいパンチの一発も叩き込まなければ私は幸運というものだろう。いや、読んでいるあなたも同様かもしれない。これでは、クライトンに合わせる顔がない(いや、合わせないけども)。とにかくクライトンにはすまなかった。謝りついでに告白するが続篇の「ロストワールド」、まだ見てない。


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