私事だが、わたくしジャッキー大西は、このたびめでたく二九歳になった。去年なんとなく予想したように、二八歳になったときほどのショックはないようで、当日がやってきてみると、むしろ三〇まであと一年ある、という気分のほうが大きい。私は確かによくこのような「締め切りまであと一日ある」という思考でもって締め切りの前々日を無駄に過ごすことが多い人間だが、二九歳のこの一年こそはどうにかして実り多いものにしたいと思っている。思った証拠にさっき「日々これ決戦」という標語を、墨と筆がないのでマジックで、カレンダーの裏に書いて貼っておいた。これを毎日眺めて決意を新たにしたいと思う。と、私の家でトイレを使う方々にあらかじめ言っておこう。あの貼り紙は、そういうことです。勘違いしないように。
私にとっての誕生日は今やその程度の無感動なものに成り下がっているわけだが、昔からそうだったわけではない。私も、小学生時代から中学生あたりまでは、誕生日が来るのが楽しみでならなかった。誕生日のプレゼントなどというものをもらえるという即物的な愉楽もあったに違いないが、言うまでもなく、九歳の少年が、一二になり、一五になりすることは、そのまま自分に与えられた自由の拡大を意味していたからだ。これは誰にでも思い当たる節のある、素直な感想だと思う。それに加えて、ただしここのところに共感してもらえるかどうかは不安なのだが、自分を指し示す数字が一つ増えるということ、それそのものに対してぞくぞくするような楽しみがあったのを覚えている。八だ、末広がりだ、あるいは、わあ、次は一〇だ。なんと二桁だぞ、というように。
それがだんだん、たぶん高校生くらいからめでたさが減じ、いったん二〇になってしまうともはや「自由の拡大」という意味はほとんど失われてしまい、それどころか、年齢を一つ一つ重ねるのがだんだん嫌になってくるのはしかたがない。さきほどの数字マニアとしての資質を発揮しようとしても、七、一三といった、数字だけをネタに文章の一本も書けそうな輝ける数字は遥かに過ぎ去り、与えられるのは二二や二六といった、ぱっとしない数字になってしまう。
ではこのまま、誕生日がなんの感動もない、それどころかいとわしいものになるのかというと、よく考えてみればそうでもない。先のことになるが、再び誕生日がめでたくなる時がやって来るのだ。六〇になると還暦のお祝いを華々しく行うのは普通のことだし、喜寿(七七歳)や米寿(八八歳)の誕生日には家族だけでなく地方自治体のほうから何らかの記念品をもらえたりする。もしなにかの間違いで百歳を越えてさらに加齢しようものなら、テレビの取材がきてもおかしくないほどのめでたさになってしまう。さらに百十を越えると、そろそろ世界記録も見えてくる。ここまで来ると、あなたのそれまでの人生がどのような恥辱と過ちに満ちたものであったとしても、ただ年を重ねるということそれそのものが、突然世界的な意味を持ちはじめるのだ。これをめでたいことと言わずしてなんというべきだろうか。
つまり、生まれてすぐの頃は嬉しいものであった誕生日が、いったん忌むべきものになったのち、再び、親戚中で祝うべきものになり、やがて日本で、さらには世界レベルで喜ばしいものになるということである。これを、年齢を横軸に「めでたさ」を縦軸に取って書いたグラフで表してみると、「めでたさ曲線」は、ある程度高いところから降りてきて、低いところを通過した後、やがて天井知らずに登ってゆく、ということになる。ところで、こういうカーブを描くということは、どこかにもっとも嬉しくない誕生日、めでたさが最低になる点があるはずなのだが、それはいったいどこなのだろうか。ここで、少々無茶な議論ながら、私はここに二六歳が一番楽しくない誕生日であるとする「二六歳最厭説」を唱えたいと思う。なぜか。説明しよう。
自然界にある物質は、すべて「原子番号」という数字で分類される原子からなっている。原子番号というのは、その原子がどういう化学的性質を持つかを表すことができる便利な数字で、だいたいその原子の重さの軽いほうから(もっと正確には、原子の中心にある原子核の中の、陽子の数、したがって中性原子に含まれる軌道電子の数でもって)番号が付けられている。水素は一、ヘリウムが二、と番号が振られてゆき、鉛は八二、ウランは九二となる。最近アメリカで作り出すことに成功した、最も重い元素は一一八の原子番号をもつと発表された。
さて、原子番号の小さい、軽い元素は、そのいくつかをまとめてより重い元素に変換することによって、エネルギーを取りだすことができる。これが「核融合」という現象である。太陽は主に水素四つからヘリウムを作る核融合反応で、あの莫大な光と熱を生み出している。地上でもなんとか核融合のエネルギーを利用しようと研究が進められているが、実用化には至っていない。一方、ウランなどの重い元素は、二つに割ってより軽い元素に変換することによって、これもまたエネルギーを作り出すことができる。こちらは「核分裂」という。今ある原子力発電所は、ほとんどこの核分裂反応の生み出す熱を利用した発電所である。
軽い原子核をまとめて重い原子核を作ることで発電ができ、重い原子核を二つに割って軽い原子核を作ることで発電ができるのであれば、軽い原子核と重い原子核の間をいったりきたり往復させることで永久に動力として使えるのではないか、と思う方がいらっしゃるかもしれない。もちろんそんなことはない。要するにこれは、どこかに一番使い道のない、燃えかすのような元素が中間にあって、水素もウランもその中間の重さの元素まで大きくしたり小さくしたりすることで、エネルギーを取り出すことができるということに過ぎないのだ。つまり、元素の持つエネルギーもまた、さきほどの「めでたさ曲線」と同じような、両端が高く、中央が低いカーブを描く。そして、どの元素が一番エネルギーの低いところにあるのかというと、勘の鋭い方はお気づきだろう。それは、原子番号二六の「鉄」なのである。
普通の周期律表には原子番号一〇三(ローレンシウム)くらいまでの元素が載っていることが多くて、ちょうどうまく人間の年齢の限界くらいまでの数の元素が存在するので、年齢と原子番号を対応させる元素の覚え方はなかなか威力を発揮する。二九歳は、二六の鉄を越えて三つ目の「銅」ということになる。こういう目で二九という年齢を見てみると、なんというか、まだまだ周期律表は残っており、銀は四七、金はなんと七九と、遥か先にある。そう、黄金の時代はまだまだ先なのである。要するに、人生はこれからだ。楽しもうではないか。