コンピューターは問う

 ロボット工学の研究者や、技術者の方へのインタビューで、今の仕事を選んだ理由として「アトム」を作りたかった、という返事がときどきある。「あしたのジョー」に憧れてボクサーになったとか、「北斗の拳」に感化されて鍼灸師になったというようなものだが、最初のきっかけが勘違いだろうが無邪気な憧れであろうが、人材を引っ張り込んでしまえばそれは現実の力として機能するわけで、やっぱりSF漫画やアニメが日本の技術の向上に果たす役割は大きいということだろう。生活の糧として研究をしている人よりは、憧れを現実のものとするべく頑張っているひとの方が、やはりいい仕事をするものに違いない。

 実際のところ、現在の技術はまだ手塚治虫の「鉄腕アトム」を作り出すことが可能な域に達していない。今のまま技術が進歩してゆけばアトムくらいのサイズで自由に歩き回るロボットはほどなく完成するだろうし、あまりにも危険な内蔵原子炉の代わりとなる動力源の問題も、燃料電池の性能向上で補いがつくかもしれない。それでもなおいくつかの技術的な「跳躍」、ブレイクスルーを必要とする場面は残っていて、その一つは人工知能である。

 人間のように考え、話すコンピューターは、アトムのようなロボット以外にも、未来のコンピューターとしてあまりにも普遍的にさまざまな作品に登場するわりには、なかなか現実の存在とならないものでもある。うまく受け答えをするようにプログラムされていて、キーボードで入力した「悩み」に適当な返事をすることで、精神分析医の役割を果たすプログラム、というものがどこかにあるという話を本で読んだことがあるが、そういうものではない真の人工知能、人の言うことを理解し心情を推測しふさわしい返答を探すプログラムができたという話は、どこからも聞こえてこない。果たしてどこかで真面目に研究されているのかどうか、と疑問に思ってしまうほどである(もちろん、現実には熱心に研究されているのだろうが)。せめて、私が今使っているパソコンのレベルで、自分のシステムのどこがおかしいのか判断し、バックアップから勝手に直すくらいの知能があってもいい気がする。最近はあまり見なくなったが、いわゆる「爆弾」マークを出して止まるパソコンに「わかってんならお前の方でなんとかしろ」と思ったことはないだろうか。

 一説には昆虫程度といわれる今の人工知能のレベルではさして意味のあることではないが、でき上がった人工知能が、どれだけ完成したか、つまり人間に近づいたかを測定する方法として「チューリングテスト」という試験法が考案されている。要するにこれは、壁の向こうにいる会話相手を、どれだけ長い間騙しおおせるか、というテストである。試験官が会話の相手がコンピューターだ、と見抜くまでの時間を測定して、それを機械の「人間をマネる能力」の目安にするのだ。

 アトムのようなロボットに採用される人工知能としては、チューリングテストでどのくらいのスコアを挙げるのが望ましいと言えるだろうか。酒場で長々と話しあう、というようなものでもないかぎり、普段の人間と人間の会話というのは実はそれほど長いものでもなくて、まず十分ほどの会話で区別できなければ上等とするべきだろう。今の人工知能はこのテストで高得点を挙げるために開発されているわけではないのだろうが、無理やり会話をさせたとすると、こんな感じではないだろうか。
「こんにちは。はじめまして。マイクロフトです。マイクと呼んで下さい」
「やあマイク。ぼくはジャッキーだ。元気かい」
「元気だロボ」
「ええっ『ロボ』ってなんだよマイク」
「ごほんごほん。いえ、なんでもありませんよジャッキー」
「ところで、牛丼は好きかね」
「とってもおいしかったですよ」
「お前食ったのかカーナビの癖に」
「はぁい」
 これでは、相手が機械だということが、あっというまにバレてしまうのである。なお、最後のくだりがなんだか分からない人は、ぜひ一度吉野家に行っていただきたい。

 さて、そうはいってもいつの日にか人間そっくりの思考機械はできることだろう。人工知能が一度できてしまえばさまざまな用途があろうかと思うが、一つこれはどうしても欲しいと思う場面に「パズルの出題者となる」というのがある。世の中には「パズルの本」というものがあって、一人で知的なゲームを楽しめるようになっている。問題のページに書いてある問に、自分で答を見つけて、ページをめくると自分の発想が正しかったかどうかがわかるのだ。特になにも人工知能が必要な場面はないように見える。ところが、これがけっこう、相手が本だと不都合な点があるのである。たとえば、ある本に、次のような問題があった。

 ある牧場に、馬が一匹、二メートルの長さのロープに繋がれている。今、杭から三メートル離れた地点に飼い葉桶を置いた。ところが、しばらく目を離した隙に、この馬が、飼い葉桶の中身を奇麗に食べてしまっていた。もちろんロープはしっかり馬に結びつけられていて異常はなかった。いったいどうしてこんなことが起こったのだろう。

 最初に書いてしまうが、トリックは「馬は確かにロープに繋がれているのだが、ロープが杭に繋がっているとは書かれていない」というところにある。馬は自由に歩いて餌を食べることができた、ということである。その辺りを指摘すると、正しい答えを出した、と満足することができるわけだ。しかしまあ、こんな答えを最初からできる人は逆にちょっと人間としておかしなところがあるわけで、普通はさんざんいろいろな可能性を考えて「わからない」となって答えを見て、唖然とする、というような筋書きなのだと思う。ところが、これを初めて読んだ私は、すぐに答えがひらめいた。

 馬は身長一メートル以上あるので、ロープの長さ二メートルに自分の身長一メートルを足して、飼い葉桶に届くことができた。具体的には、繋がれた鼻さきを杭の方に向けたまま体を伸ばして、足で飼い葉桶を引き寄せて食べた。

 中途半端に正しい答えのように思えるから始末が悪い。この答えを携えて解答を見た私は、えもいわれぬ不満感を抱いたものである。良くできた問題だけにたいへんもったいない気がする。もし、二人でこのパズルをやっていたとしたら、あるいは私に問題を出したのが本ではなく人工知能だったとすれば、こんな悲劇は避けることができたはずだ。問題の不備であったことを認めて、しかし他にエレガントな答えがあるのだと告げることができるからだ。たとえば飼い葉桶の位置を杭から五メートルにしてもいいし、飼い葉桶の位置はまったく変わっていなかった、と注釈を付け加えることもできる。だが、本ではそんなことはできないのである。

 そういうわけで、そんな意味でも、人工知能がいつの日か完成することを、強く望んでしまうのである。君のいないこの夜も、そうなれば少しは楽しくなるだろうから。


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