なんであれ最初からできないと決めてかかるのは良くなくて、極端な話、世の中に「できなくてもいいこと」というのは何一つない。せいぜい、習得にかかるコストとメリットを秤にかけて、優先順位がつくだけのことである。たとえば「米粒に絵を描く」という技術を身に付けたとしても、確かに役に立つ場面というのはあまりないだろうとは思うし、ほかにやるべきことがあるならそっちを先にするべきだと思うが、それでも他の全ての条件が同じでただ一方の人間は米粒に絵を描ける、という二人を比較することになれば、やはり米粒職人のほうがすぐれた人間には違いない。一方が米粒に絵を描く練習をしている間、寝ているよりはずっといい。
そうはいうものの、私もまたどこかに限界がある、というかそこらじゅう限界がありまくりやがる人間であるから、自分にはとてもできそうにない事柄というのがやっぱりある。かつて、中学生くらいの頃、私は「一生自分にはできない三つのこと」を公言していたことがあって、まるで「俺は嫌いなものが三つある。黒板を引っ掻く音、シャクトリ虫、それから口ばっかり達者な憶病者だ」などという格好いいセリフのようだが、それは第一に「ギターを弾くこと」で、第二が「タッチタイピング」、それから第三が「バック転をすること」であった。なんとなくこの三つに関しては、ちょっと試してみた時の壁があまりにも高いことを思い知り、自分にはできないと最初から諦めていたのである。
ただし、未熟な中学生にとっては不可能に見えたことも、後から考えてみるとそれほどでもないことは多くて、特に二番目の、鍵盤を見ずに文章を打つ技術であるタッチタイピングは、練習らしい練習もしないまま、いつのまにか完全にできるようになってしまった。ギターは今でも弾けないが、いくつかのコードを押さえることはできるようになったので、努力次第でマスターできる、少なくとも「一生できない」というほどのことではない、と今は分かっている。しかし、最後の「バック転」だけは違う。今でもちょっとやそっとの練習では克服できるような気がしない。それどころか、ほかの二つとは、立ちはだかる壁の質が違うような気がするのである。
バック転というのは、誰でも知っているとは思うがあえて説明すると、上体を後ろに倒して反り返りながら両足で地面を蹴って、続いて両手を地面につき、そこを支点に素早く体を半回転させて、再び地面に立つ、という床運動の基本的な技の一つである。階段をぴょんぴょんと降りるバネのおもちゃがあったが、あの動きに近い。我々は「バクテン」に近い発音で呼んでいた。元来は何かもう少し長い名前があってそれを略して呼んでいるのだと思うのだが、正式名称がなんと言うのかは知らない。「後方転回」でいいのだろうか。似たような技で、手を地面につかないで後方に一回転する「バック宙」という技もあるが、こちらは「後方宙返り」の略なのではないかと思う。
昔から、そして今でもかけねなしに不思議でならないのだが、これが初めからぽん、とできてしまうクラスメートが、いつの時代にもかならず一人はいた。体育の時間、演示を見たりして「人間の体はそういう運動ができる」という情報を与えられるだけで、まあ数回失敗したとしても、自然にそうした動きができる人がいるのである。クラスに一人はいるのだから、別に天才的な能力を必要とする事柄でないというのは明らかなのだが、私にとっては異人種を見るような思いがすることに違いはなかった。
そう、明らかに、私と彼らの間には動かしがたい境界線があり、私にはそれを越えられるような気がどうしてもしなかったのである。柔らかい、高飛びの着地点に置かれるような分厚いマットが後ろにあると知っていても、体を思い切って後ろに投げ出すことができなかった。試みに数回、ぼそ、という音を立ててマットの上に仰向けに倒れてから、バック転は私にとって、おそらく絶対に到達できない境地の一つ、として永遠に認定されることになったのである。
体育で習う技術には同じような性質のものがままあるが、この「バック転」は、できるかできないかの二通りであって、その中間状態というものがない。時間で計ることができるトラック競技や、修練を積んでだらしないものから美しいものにしてゆける組み体操などと違って、五〇パーセントの成功というものがなく、五〇を努力で六〇、七〇にしていってついに成功する、というようなものではないのだ。五〇パーセント成功したバック転は、三〇パーセント成功したバック転と同じように失敗でしかなく、それどころか背中ではなく頭からマットに落ちかねないという点で、より悲惨ですらある。何度もチャレンジして、少しずつ成功に近づいてゆくことを実感し、ついに合格ラインに至るということがないのだ。
小学生の時、はじめて「逆上がり」という技を習ったときに同じ思いをした人もいることだろうが、まずまず敏捷な少年であった私には、大抵のマット運動や鉄棒の技はこなせていたから(今はたぶんかなりの技がもうできなくなっていると思う)、これが初めての、どうやって越えればいいのか見当も付かない壁だった。唯一の救いは、別にバック転ができるようにならなくても単位がもらえるようになっていたことであった。いつの時代も、できたほうがポイントが高い、程度の扱いだったのだ。だとすれば苦労して習得するほどのこともない。
私のこの感想が、ある変化を見せるようになるのは、高校生の時のあるクラスメートを見てからのことである。彼は、バック転境界線の、私と同じ側にいる人間であった。何度地面を蹴っても、ぶざまにマットの上に平たくなるだけで、美しいバック転には到底達しなかった人間だったのだ。だが、そこからが私とは違った。彼は、あきらめなかった。そして、バック転という技術がいつか自分に征服されるべきものであるとの確信があった。それどころか、どういうわけか、彼はバック転ができないまま大人になるということが自分で許せなかったらしいのである。彼は、毎日とはいかないまでも、体育の時間が体操とか高飛びとか、とにかく分厚いクッションに関連したものになるたびに、引っ張り出してきたマットを使って、休み時間に修練を続けた。季節が梅雨に入ると、体育館でマット運動の授業ということが多くなったので、練習の機会はごく多くなった。「できる」人間を質問攻めにし、耳からの向上をはかることも忘れなかった。そして、長い梅雨が終わったあるとき、彼は自分が境界線の向こう側にいることを知ったのである。体がくるりと回転して、彼は見事に、床の上に立っていた。私の目の前でそれを演じてくれた彼の顔の得意そうな様子を、私は今も忘れられない。
私に決定的に欠けている資質は、すぐに見返りがなくても努力を続けるという、まさにそのことにあるのかもしれない。そして、それはついにバック転を克服した彼を見ても、結局本質において変わることはなかった。彼を見て新たな闘志を燃やし、運動場に引かれたマットの上、またも数度バック転を練習した私は、ひどく頭をぶつけると、輝く夏空を見上げたまま、もう起き上がることはなかったからだ。私とバック転との間には、依然としてこの深く青い蒼穹のような深淵が、横たわったままである。