汎網界の戦士

 いつもの映像盤に突然小さな対話窓が開き、操者の私に、その情報配付所への接触が不可能である旨を示した。軽い違和感と共に対話窓に「確認」を返した私は、ちょっと考え込む。いや、もちろんこれ自体はよくあることだ。どこかの結節が混んでいるのか、配付機そのものが「死んでいる」のかはわからないが、なにしろ昨今の汎電網の状況は渾沌への一途を辿っているかに見える。切れた連鎖、電掲全体の刹那的で無作為的な移動、情報の消失と一時的でやっつけ仕事の修復、といったことが繰り返された結果、有能な検索代の一個小隊をもってしても、汎電網の変化にはとても追いつけなくなって来ているのだ。だが、私の直感は、操作基底標準の、ありきたりの警告対話窓の裏に、ただの情報消失とは違う、何か別のものの存在を嗅ぎ取っていた。

 ともあれ接触できない理由を探ってみよう。私は、まず、電掲の所書に探針を打って反射を探ってみた。不可だ。探針は配付機まで到達できずに、結節のどこかで行き先を失って、消える。ふと気になって自分の私書箱にも探針を打ってみるが、こちらはちゃんと正常値を返すから、単に私の端末が汎電網から切り離されていただけだった、という(しばしばやらかす)間抜けな事態ではないのは確かだ。次に迂回を試みることにして、いくつか別の中継を通じた接触を試みる。結果はやはり否定的だ。三つほど試してみたが、有効な接近方法はない。私は、癖で、指示子を机の上で持ち上げてとんとんと鳴らすと、腕を頭の後ろに組み、椅子の上で背筋を伸ばした。ふうむ。おかしなところはなにもない。よくある「配付所ごと消失」というパターンだ。所書きだけが消えずに残っていて、実体がない。確かによくあることだが、はて。

 私が大学の実験データ処理用のUNIX機を通じて、はじめて汎網界に接触したころ、世界にはまだ個人の電掲などというものは存在しなかった。それどころか最初は日本語で読める電掲自体が珍しい存在だった。やがて「モザイク」が「ネットスケープ」になり、私の使用していた操作基底(Macintoshの、漢字Talk7.5などと言っていたころだった)の上層として配付されるようになり、日本語の文字化けがめったにみられなくなったころから、日本語で書かれた個人の電掲も、ぼちぼちと見られるようになったように思う。最初私は、この「個人が運営する電掲」の存在が不思議でならなかった。いったいぜんたい、このように有益な情報を世界中のだれでも無料で見られるようにする、というのはいかなる善意になるものだろうか。自分に何の得もないというのに。

 やがて私は、汎網界での情報収集に習熟し、個人の電掲を通じて得た貴重な知識、情報に大いに助けられるとともに、これに報いるにはどうすればいいか、しばしば考えることになった。大学に半ばうち捨てられていた古い端末を配付機にしたてあげ、自分でいくつかの電掲を運営するようになってからも、疑問は消えなかった。曲折を経て、電掲を海外の配付所賃貸業者に移した今も、考え続けている。一つの、かなりもっともに思える回答は、おそらく自分でも有益な電掲を立ち上げ、自分もまた誰かの役に立つことだろう。ただ、有益な電掲とはなにか、というとそれは難しい。おそらく、あるひとつの、自分の得意分野の一つについてとことん掘り下げた情報を提供することだろう。自分の興味で縦割りにした皮相的な情報ではなく、網羅的で確かな知識こそが、少なくとも利用者としての自分にとって、もっとも使いでのある、有益な情報だからだ。自分のささやかな電掲がそこからいかに離れているかを考えると、少し悲しくなることは確かだが。

 私は連鎖先のいくつかの電掲をひも解いてみることにした。基本的に、汎電網には境界などどこにもない。たとえば、私の個人的な電掲と、あなたのそれの距離は、地球の裏側にある、たとえば国家機関の公的な電掲、との距離とまったく変わらない。接触しやすさに何の違いもなく(いや、もちろん配付機の性能やそこまでの道のりによって、応答速度に差はある)、手元の端末とあらゆるものが、全て、隣りあっているといっていいのである。ただ、比喩的な意味で、互いに行き来をしやすいかどうかは、ある電掲にもう一つの電掲の所書きをしたためた頁があるかどうか、いわゆる「連鎖」があるかどうかにかかっている。互いに連鎖が生成された電掲同士が、ゆるい集落のようなものを形成していることもある。そうした、同じ集落に属する電掲か、その投稿板に、何か情報を含んだ投稿が載っているのではないかと思ったのである。

 三つ目が当たりだった。そこで電掲の運営者の方が恥ずかしそうに語っていたところによれば、配付所の賃貸業者への支払いが滞っており、その罰として業者に配付機の使用を打ちきられたものらしい。既に支払いを済ませたので近日中に電掲は回復する、とのことであった。私は、ちょっと安心するとともに、新たな疑問が頭をもたげるのをどうすることもできなかった。そうだ、電掲は決して無料などではない。それを作る手間だけでなく、維持することだけにも、運営者は常に支払いを続けなければならないのだ。これほどの好意に、私は、いったいどうすれば報いることができるのだろうか。


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