イカロスの戦争

 八つの時、背中に翼が生えてこないとわかって、ぼくは飛行士への夢に暗い影がさすのを感じた。一〇になっても、一二になっても、待ち望んだ体の変化は訪れず、そして一五のぼくは、自分がもはや飛行士になどなれないことを知っていた。

 ぼくの祖父は、とても勇敢で有能な飛行士だったそうだ。母が、幼いぼくに何度もなんどもその話をしたので、ぼくはしまいには、実際には見たことがないはずの祖父の飛行を、まるで自分のことのように、ありありと思い描けるようになってしまったほどだ。小学校の「のぼり棒」の頂上、風のわたるそこに座り、目をつぶってちょっと想像するだけで、ぼくは部隊いちの飛行士として、前線で戦っている夢を見ることができた。

 ああ、想像の中で空を飛ぶことは、どんなに素晴らしいことだったろう。自身の背中から伸びる四枚の翼を小さく折り畳んで風を避けながら、補助ロケットをつかんで、一気に数百メートルも飛び上がる。いっぱいに開いた翼が風を捕らえたらもうロケットの役割は終わりだ。複雑な機構を通じて両の二の腕に結びつけられている補助翼、竹の骨組みに油布を張った人工の翼のおかげで、自分自身の主翼と副翼は、ほんのときおりはばたかせるだけで十分体重を支えられる。そうして敵陣深く飛ぶことわずか数分、飛行士の鋭い視界の向こうに敵の物資集積地が見える。敵陣から打ち上げられる対翼砲もなんのその、翼をたたんで一気に降下して、体が地面にたたきつけられそうになるほんの一瞬前、抱えた爆弾を放り投げる。爆発、天を焦がす炎、大混乱に陥る敵。そしてぼくは、しつこく打ち上げられる対翼砲を避け、地面を這うようにしばらく飛んだ後、凱歌を歌うような軽やかさで、白い翼をはばたかせ、ふたたび空高く舞い上がるのだ。

 祖父は、ぼくが生まれるずっと前の戦いで亡くなっていて、実際には会ったことはない。ただ、祖父の友人という人が部隊から持ち帰った、長さが三〇センチもある風切り羽根が、うちの床の間にまだ飾ってある。白く、薄く、繊細な羽根は、それが祖父の唯一の形見――飛行士が作戦中に死ぬというのはそういうことだ――と知らないぼくにも何か異世界のもののように思われて、幼いぼくにとって憧れよりもむしろ畏怖の対象だった。身内に飛行士が、それも直系の血族にいる、というのは相当誇らしいことだったが、祖父の羽根を持ちだして友達に見せたり、遊んだりしたことは、ついになかったように思う。

 小学校の教師から教わったことだが、ぼくたち人類の体には、数十世紀前に存在した統一政体によって、ある「しかけ」が施されている。体の設計図である「遺伝子」の書き換えと、人間の体の中で生き、さまざまな外界の変化から人間を守り強化する「ナノマシン」のインプラントによって、ぼくたちはときおり、四枚の翼を持って生まれる。簡単なロケットと補助翼(もちろん、いざとなればこれらなしでも済ませられる。重い爆弾は持てなくなるが)を使って自在に飛び回る「飛行士」として生まれるのだ。どういう必要があって昔の人間がそういう肉体改造をしたのかは伝わっていない。ただ、それは今も続いている戦争に役に立ち続けており、戦場を舞うイカロス隊は部隊の作戦になくてはならないものになっている。

 飛行士の体を作るナノマシンは、常に母親を通じて伝えられる。一方、現実に翼をもち、飛行士になれるのはほとんど男性のほうだ。そういうふうに分業するように定められているのは、危険の多い飛行士を、できるだけたくさん産むためにそう設計されているからなのだろうか。このあたりが実にややこしいのだが、ぼくが飛行士になれるかもしれない、と思ったのは、祖父の孫だからではない。やはり飛行士だった友人の妹を娶った祖父が、祖母−母−ぼくというラインで、飛行士の可能性を残してくれたからなのだ。そうはいっても、遺伝というものはまた、実にきまぐれなところがあるわけで、現に、ぼくにあれだけ待ち望んだ翼があたえられることは、ついになかった。

 血筋がそういうことになっているから、親も教師もぼくにはひとからならぬ期待を抱いていたことと思うが、一五でまだナノマシンが翼を作りはじめず、体に何の変化もないということは、ぼくは飛行士になれる血を受け継いでいない、ということになる。それで、中学校を卒業するとき、ぼくには二つの道が示された。ひとつは普通の高校にゆき、市民として父のように生きてゆくこと。二つ目が、部隊に志願し、飛行士以外の、たぶん一兵卒として、隣の部隊との戦いに備えること、だった。飛行士として部隊に入ることを夢見ていたぼくだったが、志願は気が進まなかった。ぼくらの部隊は、このところ旗色が良くなく、ぼくが生まれてからこちらの幾度かの戦闘で、戦線を一〇〇キロも後退させられてしまっているから、なおさらだった。敵の優勢下で、塹壕にうずくまって爆撃を受けるがわに立つのは、どうも、楽しいことには思えなかった。

 そんなふうに悩んでいた一五歳のときだった。教師との面談がある中学校の進路指導室の前で順番を待ち、立ち尽くしていたぼくに、声をかける者があった。ぼくは振り返って、声の主を確かめる。自分でも、顔がしかめっ面を作っているのがわかる、が、どうしようもない。そこに立っていたのは、学校で唯一の飛行士候補生、そして非常に珍しい女性飛行士の、ミサキだった。

「ツバサ」
 と、振り返ったぼくの表情を気にするふうもなく、ミサキはぼくの名を呼んだ。ちっとも名が体を表していない、ぼくの名を。
「わたし、部隊に行くことにした。あなた、どうするの」
 きみの知ったことか、といってやりたかった。女性の飛行士は、本当にめずらしい。たいていは翼を備えていても、実際に飛行するまで成長しないことが多いのだが、彼女はその点でも完全な例外で、部隊の幼年部が行っている飛行の基礎訓練を、既に優秀な成績で修了していた。それでも部隊に行かず、次代の飛行士を産むことに専念してもよかったはずだが、ミサキは部隊で戦うことを選んだらしい。ぼくは、彼女の問いに考え込むふりをして、彼女の美しい翼に見とれていた。窓から差し込む初夏の日差しを透かして、白く輝く二対の翼は、薄暗い床の間に置かれた祖父の風切り羽根とは別物のように、あくまで軽やかに、痩せて小柄な彼女の呼吸を映して、上下にかすかに揺れていた。
「…さあ」
 ふと彼女のまなざしに気がついて、ぼくは慌ててそう言った。彼女を見ていたことに気付かれたろうか。それとも、ずっと気付かれていただろうか。今までも、ずっと見ていたことに。ぼくは窓の外を見るふりをして、彼女の翼からむりに視線をもぎ離した。
「さあって、なによ」
 そのぼくの視界に、再び入ってくるように歩み寄ってきた彼女に、ぼくはまたも耐えがたい気後れを感じながら、やっとこれだけを言った。
「わからない。決めてないんだ」
 彼女の顔が、ぱっと明るくなったように見えたのは、気のせいだったろうか。
「じゃあ、部隊においでよ。飛行補助士になれれば、また会えるかもしれないし、あなたもきっと、ほら、飛行士の遺伝子を受け継いでいるんだし」
 ぼくは、彼女の言葉をそこまで聞いて「ああ」と、乱暴にさえぎった。しまいまで聞いていられなかったのだ。ミサキのその言葉が、どういう気持ちから出たものだったか。どうであったにせよ、その時のぼくには耐えられなかった。ぼくは「考えてみるよ」とだけ低くつぶやくと、ふたたび彼女から目をそらし、進路指導室の扉をじっと見た。早くこの場を離れたい気持ちでいっぱいだった。そして。
「きっとね」
 と聞こえたような、他の言葉だったような、振り返った時には、もうミサキは去った後だった。羽毛一枚残さずに、いなくなっていた。ぼくは作ったままのしかめっ面のやりどころがなく、舌打ちをしてごまかした。ミサキと話をしたのは、それが最後だったと思う。

 それから、数えてみるともう十年が過ぎた。ぼくは結局普通の高校に進み、普通の市民として生活を営んでいる。ミサキは、その後部隊から何度か簡単な挨拶の手紙をよこし、ぼくも型通りの返事を書いたが、それも間遠になった。三年前の戦闘で、隣の部隊との、激しい航空撃滅戦があって、またも我が部隊は陣地の縦深を失ったから、もしかしたらどこかで何か困った事態に陥っているのかもしれない。が、新聞は個々の負傷者や戦死者のことを書いたりしないし、ミサキの実家の場所さえ知らないぼくには、それ以上どうすることもできなかった。

 普通の市民の生活は悪くない。実のところ、数年前からつきあっている女性がいて、別に飛行士の血筋でもない彼女との結婚を考えていたりするぼくには、かつて確かにあったそんな出来事のことさえ、ともすれば忘れそうになってしまう。ただ、ほんの時折、考えてみることはあるのだ。果たしてぼくが部隊に行けばどうなっていただろう。飛行補助士になって、少しあの空に近い場所にいることができたろうか。あの翼ある飛行士たちのそばにいることができただろうか。そしていつも、自分にはなかった翼のこと、ミサキの、夢のように白い翼のことを思い出して、ため息をつくのだ。


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