トルシエになりたい

 石造りの構造物には、いわくいいがたいパワーがある。その重さ、あるいは比重、そして素手では歯が立たない硬度、さらには風雨にかなりの程度耐え抜く力をもって、石の彫刻は、ただそこにある、それだけで我々に何かを訴えかける。ピラミッドしかり、万里の長城しかり、日本式の城郭の石垣や、凱旋門のような門柱もまたしかり。そしてそうした巨石に限らない、単なる墓石や歌碑の類にすら、我々脆弱な炭素生命体は何か畏怖めいたものを感じずにはいられない。「これが崩れて、のし掛かってこられたら死ぬ」という単純な事実がその力を裏付けているのかもしれない。このエネルギーは、特にそれがある種の、なんというか、モニュメントに用いられた場合、一種不可侵の神性を付与することさえある。ぶっちゃけた話「でもまあ、作っちまったんだから、どうしようもないな」という諦念に似た思いを引き起こしてしまうのである。なにしろ、石でできているのだ。

「待ち合わせはモヤイの前で六時」
 というメールを、東京に出て初めて受け取った地方出身者の返す反応としては、ある統計によれば約四割が「はぁ?」であるとされる。むしろ我々が驚くべきは、ほぼ三割もの人間が「オッケー、それでいいよ。遅れんなよ」と答えることであるが、昨今の携帯電話の普及を見ていると、それもやむを得ないことではないかと思う。分からなくなったら、いつでも電話すればいいからだ。ちなみに、残りの二割の人間が「どっかほかの場所にしようぜ」と答えるとされている。

 ところで、私の返事もまた、そうした類型と似たり寄ったりではあった。具体的に言うと、こんなふうであった。

From:ジャッキー大西
To:シモパン
その「モアイ」というのは、
  /\
 /  L__       ○
 \     |    o
  \ @   \ 。
   \U   ⊂|
    \    |
 〜〜〜〜\   |〜〜〜
のことか。渋谷にそんなものがあるのか。だいたい、どうしてハチ公の前ではいかんのだ。
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ジャッキー大西
http://onisci.com/ (※註:こう見えるはずです

 この、期待できるウケに比べて不釣り合いに時間をかけた労作への返事のメールは、あまりといえばあまりのことに、実に簡単なものだった。
「その通りである。ただし、モアイではなく『モヤイ』である。それに、リングレーザーは吐いていない」
 いったいぜんたい「リングレーザー」とはなんのことだろうか。そしてハチ公の前がそんなに嫌か。

 とまあ、そういうふうなことがあって、その夕方、案の定遅れた友人を待って、私はモヤイ像の周りの柵に腰をかけていた。人と人を結びつける協力のシンボルとして「もやい綱」から「モヤイ」と名付けた云々という由来が記されていたその巨石建造物は、ちょっと丸顔で、かつドレッドというかワカメのようなものを頭に乗せてはいたが、だいたい、おおむね、概略はあのイースター島の謎のモニュメント、モアイであった。「いけふくろう」同様、ダジャレを唯一の存在理由としているモヤイ像は、やはり「いけふくろう」同様、石質でできたその巨体に確かに厳然たる「ま、しょうがないよな」感をあたりに漂わせている。現に、ここはハチ公前ほどではないものの、威力のある待ち合わせ場所となっていて、周囲には友人を、あるいは恋人を待つ人々が入れ替わり立ち替わりその人生の一断面を私の前に展開しているのだった。

「だから、あたしのおねえちゃんなんて、あの地震で、もう少しでたんすのひきだしになるところだったんだってば」
 という発言に、聞くともなく耳を傾けると、いわゆる山姥、来年か遅くとも再来年の今ごろには「どうしてアタシたちはあんなことをしていたのだろう」と皆がみな我に返ること請け合いの、珍妙なペインティングに顔をうずめたうら若き女性が、男子二名を引き連れて何か話をしているのだった。どうも、まだ来ない友人を待っているらしく、三人の会話は弾んでいる。こういう場合大抵そうであるように、会話の主導権は女子が握っているようだ。
「ふうん」
 という、何とも味気のない相づちを返す男子A。もう一人の男子Bに至っては「そりゃ、たいへんだったねえ」などと大甘なことを言っている。私は、内心「違うだろっ、箪笥の下敷き、だろっ」と思っていたが、その女子の姉の人が、引き出しをひっこ抜いたタンスに潜り込んで四角くなってしまうところだったのかもしれず、辛うじて口出しを押さえた。だいたい、あの地震である。何が起こっても不思議ではない。

「遅いなあ」
 と小声でつぶやき、所在なげに腕時計の秒針がぐるっと回るのを眺め、それにも飽きて通りの向こうのコカコーラの看板の電飾に見とれるふりをしていると、隣では話題が変わったようだ。
「それでね、おねえちゃんの夢って聞いたのよ、将来何になりたいのか。それが『トルシエになりたい』なんて言うのよ。あたしもう、あきれちゃって」
 この女子、なりに似合わず、しっかりした、いわゆる「カツゼツのよい」喋りかたをする。私はコーラの看板から目を離せない。
「と、トルシエ。なんだそれ」
「サッカーの監督って…ことじゃないよな」
 と言ったのは男子Aと男子B。こちらのほうは、どうも、知性が感じられない「シャベリ」ではある。
「違うのよ。よく聞いたらどうも『パティシエ』の間違いらしいのよ」
 そこで、どっと三人が笑った。
「『トルシエ』よ、『トルシエ』。」
「何となく、似てるよなぁ、そう言えば」
「トルシエには、なれねぇよなあ」
「そりゃ、知らなかったら間違ってもむりないけど、自分のなりたい職業なのよ。普通、間違う?」
「トルシエなあ」
「解雇されるとか、話題になってるもんなあ」

 と、そこで、いつの間にか私の背後に忍び寄っていたシモパンが、私の後頭部に「ヴァルカン・ピンチ」を仕掛けてきたので、私はまったくトルシエどころではなくなった。だから、地震でタンスの引き出しになってしまい、将来の夢はトルシエになることである、山姥の女子の姉の行状は、私にはそこまでしかわからなかったのである。とはいうものの、それもこれも、巨大な石塊であるモヤイ像がそのパワーをもって、私と彼女らをかりそめの絆で結びつけることに成功したのだ、と考えられなくはない。そして、私のフライングノッケーを後頭部に喰らってしゃがみこんだシモパンと私の上に、渋谷の宵闇は確実に迫りつつあるのだった。

 ところで、一つだけずっと気になっているのだが「パティシエ」っていったいなんなんだろうか。いやいや、サッカーの監督に似た仕事ではない、ということだけは、分かっているのだが。


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