世の中には、超科学、あるいは疑似科学、エセ科学などと呼ばれるものがある。広く認められている法則や学説(たとえば相対性理論や進化論)に反する独自の理論を提唱するもの、無限のエネルギーや超越的に効率のよい駆動機関の理論を発明したと言い張るもの、霊魂や超能力の存在を証明したと主張するものなど、内容はさまざまであるが、どれも同じである、と簡単に切って捨てるわけにはいかないものでもある。
疑似科学というのは、結局のところ「現実に合わない」、すなわち間違っていることをもってすべて等価であると言うこともできるのだが、料理の失敗の仕方がさまざまであるように、間違い方にもやはりいろいろある。箸にも棒にもかからない、それを印刷した紙の値打ちもないものから、間違ってはいるが鋭い指摘が含まれていたり、これをもとに小説の一本でも書けそうな優れたものまで、歴然とした階層構造をなしているのである。もちろん、読むに値するのはごくわずかであり、どうにも下らないものの数が圧倒的に多いのは確かだが、これは「スタージョンの法則」といって、世の常であり、いまさら嘆くに当たらない。
最終的に「しかし、残念ながら間違っている」と結論を出さざるを得ないこうした理論群を、どのように評価するかは、本質的には好みの問題もあって難しいが、ランク付けの最初のテストとして「自己無撞着性」を持ってくれば、ここのところはだいたい納得してもらえるものと思う。撞着とは「矛盾している」という意味だが、撞球(ビリヤード)の撞と同じ文字で、「つっつく」という意味である。何となく、前にいる人をつっついたらそれは自分だった、というような、妙な語感がある。要するに、自己矛盾を起こしていないこと、自分で自分のしっぽに噛みついたりしていないことである。
そもそも、たいていの疑似科学は現実を一部無視することによって生み出されてしまうのだが、意図的にやっているのでもない限り、これは畢竟「あることを知っているか、知っていないか」の問題なので、ある程度理解できる部分もあると思う。許せないのは、書き手の知識の問題ではなく、論理的思考能力に欠けている場合なのである。書いているうちに前に自分が前に書いたことを忘れて相反することに気がつかなかったり、ひどい場合には並べて書いてある二つの主張が相反することが理解できないような筆者もいる。嘘でもいいからせめて上手にだまして欲しい、と感じるのは、読んでいてこんな矛盾にぶつかったときである。
自己無撞着性は、SFやファンタジーにおいて独自の設定をひねり出す、というような状況でも、当然気にかけてしかるべきものである。ファンタジーはともかくとして、SFとは要するにそういうものであるとまで思っているのだが、いかに矛盾のない、もっともらしい設定を作り、それに沿って当然そうなるべき魅力ある世界を描くかが作者の腕の見せ所と言ってもいいのだ。さらに言えば、普通の論理的思考ができる人間が作り上げた体系は、特に意識しなくとも、内部に矛盾を抱えたままよりは、なんとかそれに説明をつける方向に進むものだと思う。おそらく、自己矛盾を抱えて平気でいるような最低の疑似科学に私が抱く、なんともいえない気持ち悪さは、相手がそうした気遣いすらしていない、まともな人間ではない、というところにあるのだろう。
疑似科学やSFに限らず、宗教もまた、一つの知識体系である以上、その優れた部分に関しては、内部的に矛盾なく構築されているはずである。そうでなければ、長期間にわたる多数の人間による論考に耐えられないからだ。よく宗教的議論が不毛であることのたとえとして「針の先で何人の天使が踊れるか」という話が使われるが、これは本当は、天使という存在が体積を持つかどうか、霊的なものなのか物理的存在なのか、という真剣な問い掛けであるらしい。もちろん、天使というものが現実に存在しない以上不毛なことは不毛であるが、聖書の記述などさまざまな文献と矛盾しないような体系をつくるためにはどう考えればいいか、という意味で、立派に議論になりえたのだと思う。今存在している古い宗教はすべて、そうした努力が、矛盾を排除し、緻密な論理体系を構築するために、惜しげもなく払われてきた末にあるのだと思う。
さて、十年ほど前から、郷里の共同墓地で、墓の改修が始まっている。家によって工事の時期はそれぞれで、全部が一時に、というわけではないのだが、先祖たちの多数の墓をまとめて、一つの「大西家先祖代々の墓」といったものに作り直す傾向にあるのだ。これまでは、一人につき一つずつ石柱を組み、俗名と没年、戒名を彫り込んで墓としていたのだが、数が増え、一つにはそうした墓全ての管理をするのが大変になってきたこと、それから墓地として公共のものになっている土地がだんだん不足するようになってきたことから、立派な墓碑を建てそこに全てを合葬する、というかたちになってきているようである。私の家も五年ほど前、新しい墓に建て直したところである。
かつて、先祖たちのためにひとつひとつ建てられてきた墓には、さまざまなものがある。新しくてしっかりしたものから、古く、いつのことなのか、途中で二つに折れたり、表面の文字が削れ、崩れおちて読めなくなっているものもある。ただの直方体のものから、彫刻された、複雑な多面体のものまで形もさまざまである。自然石に近い簡単なものは、子供のうちに亡くなった者がいたのだろうか。こうした年月を刻み込んだ墓石を見ていると、この石柱をないがしろにして、葬られた先祖の霊をひとつにまとめる、などということをやってもいいものか、と当然思うわけだが、そこに宗教の合理性というか、自己無撞着な体系を作ろう、という努力の跡が見られる。「性根を抜く」という方法があるのだ。
古い墓石には、祖先の霊、あるいはなんらかのアイデンティティが残存していると考えられる。これを、墓石から別の宗教的装置に移し、最終的には新しい墓石へと移っていただく。このために、ちゃんと定められた儀式が用意されているのである。「性根抜き」と呼称される儀式を行うと、墓石からそのアイデンティティが別の場所に移動し、そちらに「性根を入れ」られる。性根を抜かれた古い墓石は、もはやどこにでもある普通の石と、まったく等価である。少なくとも宗教的な意味を、喪失する。
この合理性は徹底していて、土地によっては、こうして性根を抜かれ、余剰となった石材を墓地の階段などに埋め込んで再利用しているところもある。ちょっと前まで墓石であったものが、階段の敷石や手すりとして使われてしまうのだ。私の近所の墓の場合は、さすがにそこまではしていないが、ある程度の間隔で並べられていた石柱を、新しい墓の敷地の隅にぎっしりとまとめて置いてある家をよく見かける。
私など、この古い墓石を見て、やはり「こんな取り扱いでいいのだろうか」と思ってしまうわけだが、論理的には、これはただの石柱群なのである。荷物としてまとめてしまうどころか、上に腰掛けたり土足でとことこ歩いたりしてもよいはずなのだ。こういう根本的なところで、宗教的取り扱いのほうが合理的で、あっけらかんとしているのは、つまりこれこそが、時間によって磨かれた自己無撞着性のたまもの、ということなのだろう。少なくとも生身の私は、まだまだ矛盾を抱えた、不完全な存在なのだと思わざるを得ない。