海外旅行中に病気になるというのは、よくある話である割にはたいへん面倒なことになりやすく、その理由の一つに、症状をうまく医者に説明できないことが挙げられる。頭や腹の痛みを訴えるくらいはなんとかなるが、たとえば「昨晩から下痢をしている」と言いたくなったところで、どうやら私の能力を越えてしまう。これは、英語能力云々というよりは、そもそも傷病関係の語彙が少なすぎるのであり、つらつら考えてみると打撲、炎症、潰瘍といった傷病名はもとより、「シクシクと痛む」「胸焼けする」あるいは「肩甲骨の下あたりがかゆい」程度のことも伝えられないのでいざというときにはどうにもならないのではないかと思う。うっかり医者に行って、食中毒なのに虫垂を切られたりしかねないのだが、そもそも盲腸炎、虫垂炎のことは何というのか。「アッペ」では通じないのだろうか。通じないのだろうなあ。
虫垂は知らないが、「水虫」、足の裏や足指の間にできる皮膚病が、英語で何というのかは、調べたことがある。「athlete's foot」だそうである。「運動選手の足」ということは、すると英語圏では水虫は運動選手の業病だとみなされていることになるが、なるほど、確かに汗をかくうえに、あのスパイクというやつは風通しが悪そうなので無理もない。無理もないとはいえ、ちょっとひどい気はする。要するに「テニスひじ」のような語感なのだろうと思うが、どちらかというと「柔道部体型」「剣道の防具系悪臭」のような、体育会系差別用語であるような気もする。
私の父がよく使っていた、水虫かまたはその症状の一種をさす言葉に「がえるまた」というものがあった。ご存知だろうか。方言も方言、ハード方言どころかデス方言、もしかしたら父が勝手に発明して使っている言葉かもしれないのだが、これは、水虫の中でも特に、足の指のまたが水虫に侵されて弱くなり、裂けてしまう現象のことである。これはもう、
折悪しく、ちょうどその頃、保健体育の授業で「健康とはどういうことであるか」というテーマの授業があって、先生がこういう質問を投げ掛けた。
「では諸君は健康だろうか。健康でないという者はいるか。今日は十日だから出席番号十番の大西」
私は、起立し、ほとんど反射的に、こう答えた。
「はい、実は水虫があります」
クラスのみんなからウケを取るつもりだったのだが、で、実際ウケはとれたのだが、先生にひどく嫌がられ、「水虫を治すまではプールに入ることを禁じる」と言われたのが残念であった。今だから白状するが、先生すいません。高校生の間中、ついに完治はしませんでした。
さて、この数ヶ月というもの、私はまたも足の痒みに悩まされていた。「がえるまた」にはならず、ただ足の裏の、皮膚よりもちょっと内側が耐えがたいほど痒くなる。なにしろ足の裏の皮膚というのは分厚いので、上から引っかいてもなかなか痒みがとれない。私は、放っておいても治らないので観念して、薬局で薬を買ってきて治療につとめていた。ところが、治らないのである。確かに薬をつけると当座の痒みは治まるのだが、症状がいっこうに改善しない。私は「水虫には根気が薬」などとつぶやきながら、耐え続けた。
そんなある日、訪れた薬局のお姉さんが、ふと思い付いたように、こんなことを言った。
「それは…、水虫ではないかもしれません」
「は」
「本当は、ええ、患部を見ないと本当のことはわかりませんが…、その、水虫ではなく、汗でかぶれているだけ…、ということがあるのです」
そんなことが、あるのだろうか。
「…この試供品をさしあげます。…かぶれの薬です。今お買い上げになった水虫の薬が効かなかったら…、こちらを使って下さい」
何度薬を買っても治らない、と私が相談したのだったとしたら無理もないが、私は単に現状を説明しただけだった。症状を説明して、水虫以外の処方を出されたのは、初めてである。私は、水虫に決まっているではないか、とは思ったものの、とにかく、もらえるものはもらっておくことにした。
「は、どうも、ありがとう」
「…お大事に」
最初から最後まで、妙に伏し目がちというか、言葉が途切れがちな人だった。
で、結論から言うと、この試供品が効いたのである。買った水虫薬はやっぱり効かなかったにもかかわらず、ちょっとかぶれの薬を試しただけで、足裏の角質化が、劇的に改善され、痒みもすっかり収まった。私はあわててこの試供品の製品版を買いにその薬局を再訪したのだが、もはやそのお姉さんはその薬局にはいなかった。私は製品版を使った結果、あきれるほど短時間ですっかり治った足の裏を撫でながら、あのお姉さんはもしかしたら薬局界のブラックジャックみたいな人ではなかったのだろうか、と、そう思ったのであった。
ところで「かぶれ」は英語で何というのかというと「rash」らしい。なんとなく、痒くてぼりぼり掻いてしまいそうな、語感ではある。