昭和50年の砂場にて

 小学生の時、あるいはそれより前に自分という存在がなにを考え、どういう毎日を送っていたかと考えてみて、その記憶が三十歳を迎えようとする今となってはいかにあいまいな物になってしまっているかに気がつき、愕然とすることがある。確か、中学生、あるいは高校生ぐらいのころまではさほど苦労なく幼児期のことを思い出せていたはずなのに、二十代を暮らすうちにいつのまにか、その頃の思い出がトコロテン式に押しだされてしまったような気がするのである。

 かつて覚えていたということだけは覚えている、確かに考えたいろいろなこと、会った人交わした会話、見て聞いて、触って味わったいろいろなものを全て忘れたとき、果たして私にはその時代が確かにあったと言えるのだろうか。少なくとも、幼児の私もまた今の私の一部をなしているのだと胸を張って言うことはできなくなるだろう。ということは、その頃の私が一種の「死」を迎えたことになるのではないだろうか。それはたいへんに寂しく、恐ろしい予感である。

 とはいうものの、その頃の「ぼく」のことを今の私が客観的に見てみるなら、あまり愛すべき幼児だとは言えない。自分勝手で視野が狭く、語彙の乏しい幼児ではあったろうと思う。そんな「ぼく」が「私」に誇りうるものはほんのわずかしかないというのは確かである。残った数少ない記憶の一つを今思い出してみて、どうも、それほど強烈な出来事でもないのに記憶に残っているのは、それから少し後の、たとえば中学生頃の「僕」にとってその記憶がやはりいくばくか誇らしいものであったせいだろうと思う。

 それは、私がまだ保育園に通っているときのことだった。冬の弱々しい日差しが、それでも保育園の狭い庭を暖め、私たち保育園児は砂場で思い思いに創造と破壊に心を傾けていた。しばらく雨が降らなかったせいだろう、砂は軽く乾いていて、山にトンネルを掘ったりするには、やや、不向きな砂質になっていた。にもかかわらず、他に遊び場がないではないのに、私たちの大部が砂場に執着していたのは、そのしばらく前、ある園友が発明した「ええすな」のせいだった。

「ええすな」というのは、私たちの地方の方言で「良い砂」という意味である。別の園友が誇らしげに実演してくれたところによれば、ええすなはシャモジ(たぶん本来ママゴトのために遊具として置かれていた)で、砂場の砂をひとすくいとって、それを軽く揺さぶることで作られる。山盛りにされた砂が、木のシャモジの上からほとんどこぼれ落ちてしまうと、おそらくは粘性とかそういった物理法則によって、ほんのわずか、粒が揃ったキメの細かい、ちょうど砂時計に入っているような砂が残る。それが「ええすな」である。

 ええすなは「触ると気持ちいい」という理由で、保育園で大流行した。根気よくシャモジを使って、ほんのわずかしか手に入らないという希少性もまた、園児たちの心をつかんで離さなかった。特にええすなを発明した園児は根気と気前のよい園友に恵まれていることで有名で、恐るべきことに小さなバケツ一杯のええすなを所持していた。自らええすなを製造する技術を持たない園児達は、こぞってそのええすな体験を求めて彼に群がるのであった。

 私は、といえば、これもまた恐るべきというか、かわいげのないというべきか、始めに少し自分でええすなを作ってみて、ははあ、なるほど、と思ったものの、それ以上の追及は行わなかった。あまり関心がなかったと言ってもいい。そもそも私は、砂場での遊びよりも、保育園の書庫にある大量の幼年誌を読破するという事業に忙しかったりした。はっきりいって、たいへんに愛敬がない。もしも彼が今ここにいたら、殴らないまでも、教え諭してやりたく思ってしまう。

 さて、そんな無関心は、やがてある転機を迎えた。その日、園友の一人、それはたまたま女の子だったのだが、仮にキミちゃんと呼んでおくその女の子が、私にこう言ってきたのである。
「なあなあ、わたしもええすな、ほしいねん」
 私は、言下に答えた。
「じぶんで作り」
 思い出すだに誇らしいというか、その頃の私がいかに硬派であるかということに胸を張りたくなるが、考えてみればそれくらいの年齢の男児というとそんなものである。キミちゃんは、困ったように目を伏せて、泣きそうな声で言った。
「せやって、シャモジはミツルくんが使こてるし」
 ええすなの製造法は上記のようなものだったので、当然ながら、道具の奪い合いが起こってしまうのである。体の小さいキミちゃんには、シャモジの独占使用権が与えられないのも当然だった。私は、そもそもその保育園で一二を争う泣き虫で弱虫だったのだが、どういうわけかキミちゃんを助けてやらねばならぬ、という気持ちになった。なぜだかはよくわからない。私は、キミちゃんのため、この遊びの時間、ええすなを作ることにしたのだ。

 はじめ私は、手のひらをシャモジの代わりにして製造を始めた。あまり思わしくない。手のひらには指と指のすき間があり、そこに大粒の砂が残ってしまうのである。手を軽く開いてみて、砂つぶが落ちるようにしてみた。手のひらにはほんのわずかなええすなしか残らなかった。これではダメである。

 と、そこに訪れた天啓のようなひらめきはいったいなんの故にだったか。ともかく、かつて祖先が石の尖ったほうを使って獣を殴り殺して以来、人間の上に降り続けてきたあのひらめきが、幼い私の上にも訪れたのだった。砂を、手のひらから少しずつこぼすと、風に乗って、ええすなだけが遠くに運ばれる。この原理を使えば、いままでより遥かに容易に、かつ大量に、ええすなが製造できるのだ。風が弱ければ、うちわで扇ぐか、口ですこし吹いてやればよい。手から落とされる砂の流れから、ごく小さい粒だけが、背後のバケツに、あまりにも簡単にためられてゆく。

 かくして、ええすなの新しい製造法は発見された。それを見ていた園児達によって、その発明は一気に保育園じゅうに広がり、ええすなの大量生産時代を経て、ええすなの価値は大暴落した。人の心は不思議なもので、かくも簡単に、大量に得られるということが分かると、あえてええすなを製造しようという人間さえいなくなってしまったのである。新発見から一週間ともたず、ええすなのブームは終わった。

 今、この保育園児の自分の歴史を思い出してみるに、残念なのは、この一連の出来事に対してキミちゃんが私にどのような評価を下したかがまったく思い出せない、ということである。私のええすな製造工場の受益者となったキミちゃんは、そのあと一瞬だけ最大のええすな保持者になったわけだが、私に対して何らかの感謝の気持ちを捧げてくれたような記憶は、どうもない。キミちゃんは、どんなに喜び、そのあと落胆したろうか。そして私はそれを見てどう思ったろう。

 この一件から、なにごとかの深い教訓を、そのあと思春期を経ていくつか女性で失敗もする私は、引き出せてもよかったようなものだが、今のところ私に言えるのは、手あかのついた「科学は必ずしも人間を幸せにしない」という言葉だけであるので、とりあえずこれでしめくくっておくことにする。


トップページへ
▽前を読む][研究内容一覧へ][△次を読む