だれが言いだしたやらどこで言われているやら「日本人は水と安全はタダだと思っている」という警句があって、つまり水も安全も本当はタダではないのである、ということなのだろうが、安全はともかくとして水の方は、たとえミネラルウォーターを買ったりしていないとしても、井戸水の時代でもあるまいし、水道代というものを我々善良な市民はちゃんと月々払っているのであって、もとより別にタダではない。
そうはいうものの、水道の蛇口をひねるときに我々は、あまりコスト意識を感じていないのは確かである。考えてみると、ガス、電気、自家用車でちょっとそこまで、という場合もそうで、使いながら「今財布から刻々とお金が消えていっている」などとは思わないものだ。本当は思ってしかるべきなのだが、不思議だ。
一方、モデムを使って、パソコンからインターネットへダイヤルアップ接続をしていると、どこかに私の時間を測っている機械があって時間当たりで課金されている、という意識を、どういうわけか強く持ってしまう。普通に電話をかけるときには大して何とも思わないのに、これも不思議である。これに似た感覚というと、昔、大学で大型の計算機に接続して何か計算をやらせたときぐらいしか思い出せない(これも、CPU時間一分当たりで、課金されていた)。思うに、コンピューターというものは、人をせせこましくさせる機械である。
今私は時間当たりでお金を使っている、という、せっつかれているような、厳格な出納係が頭の中でイライラしながら歩き回っているような、あの感じはなんとも嫌なものである。いったいぜんたい、電話代はなんとかならないのか儲けているんじゃないのかと、NTTに悪態のひとつもつきたくなるのだが、本当のところ、時間当たりの課金ということで計算してみると、市内電話料金というのは、実は自家用車のガソリン消費で使われてゆくお金よりもいくぶん安い(※1)。
ガソリン代が高い、ないし定額制を導入せよ、とはあまり言われないのに、電話代だけ強くこれを求められるのは、このへんの金銭感覚がわからないまま、とにかく「只今の接続時間3分15秒」などとはっきり表示されて「またお小遣いが20円減った」ということがすぐわかってしまう接続費を、みなが嫌がるせいではないかと思う。もちろん「自家用車はインターネットよりもかなり役に立つ」とか「いいじゃないか回線なんて減るもんじゃなし」という理由もあるのだろうけれども。
話を戻して、では、水道水はどうだろう。たとえば、東京都水道局によれば、水道水の料金は(契約によってなかなかややこしい表になっているのだが)おおむね1立方メートルにつき200円程度であるらしい。1立方メートルというのは百万立方センチメートルであって、千リットルである。一リットル0.2円。これは確かに、安い。節約するのがばかばかしくなるくらい安い。ミネラルウォーターは1リットルで200円くらいするので、千分の一の値段である。たとえていうなら、イギリスの垂直離着陸戦闘機のハリアーと、トヨタのRV車のハリアーくらいの価格差である(※2)。もっとミネラルウォーターをあがめるべきである気がしてくる。
ひねれば出てくる蛇口、という形態になっているのも、コストを感じない原因であるかもしれない。昔、小学生のころに読んだ本に「でぶの国のっぽの国」という話があった、ずいぶんなタイトルだが、享楽的なでぶの国、ストイックなのっぽの国という二つの国が登場して、その対比が主眼となった物語だった。話としては、結局はどちらも極端に走るのはよくない、協力しあってゆくべきである、という結論になるわけだが、その、でぶの国に、ひねるとココアがでてくる蛇口、というものが出てきて、子どもの私はたいへんにうらやましかった。あれは、タダなのではないかと思う。いったいどういうシステムになっているのか、でぶの国。
その頃の話である、私は熱を出して、数日間もの間布団から起き上がれなかった。ある種の風邪は、苦しい夜を過ごして目が覚めてみると、大量の汗とともにすっきり治っている、ということがある。その朝もそうだった。私は、生き返ったような気持ちで目覚め、汗に濡れたパジャマを着替えて、信じられないほど気分がよくなっていることを知った。汗をかいたからだろう。喉の渇きに、私は布団に起き上がって、母親に水を一杯欲しいとねだった。母親は私の様子に安心して、しばらくしてコップに水を汲んできてくれた。
そのコップから一口飲んで、私の驚いたことといったらなかった。あまりにも苦しい夜のあとだったからだろうか。その水のなんとおいしかったことか。そのころはまだ「甘露」という言葉を知らなかったが、知っていればこの水の味をそう例えたと思う。人生は素晴らしく、水道の水でさえもこのようにおいしい。水のおいしさよ、自然の恵みよ、と私は健康の有り難さに小躍りしそうだった。
が、その気持ちは、長続きしなかった。私は、とにかくもう一杯と、水道の蛇口のところに行ってお替わりを汲んだのだが、その味は、最初のあの一杯とまったく違っていたのである。なんだか薬臭く、生ぬるく、あの感動を思い出すことさえできなくなるような、まずさだった。
後で訊くと、実は、母親が私に出したのは、水ではなく、気の抜けたサイダーだったのだそうである。気の抜けたサイダーというと、つまりほとんど砂糖水ということになる。甘いはずだ。いくら気が抜けているとはいえ、サイダーと水の区別がつかないなんて、病み上がりで朦朧としていた小学生としても、どうかしているとは思うのだが。
それからというもの、ひねればあの素晴らしくおいしい水が出てくる蛇口がどこかにないものかと、小学生の私は猫のピートが夏への扉を探すような執心さで、ココアの、せめてサイダーの出る蛇口を、心のどこかでいつも探し続けていた。ずっと後になって、タダでいくらでもジュースが出てくる自動販売機というものが存在する(ある種のイベント会場などにある)ということを知って溜飲を下げたりもしたが、なにかきっと問題があるに違いなくて、そういう蛇口には出会ったことがない。
先日、歯を丈夫にするために、水道水にフッ素を添加するという話を新聞で読んで、ちょっとその頃のことを、思い出した。虫歯が減るというくらいである、残念ながらフッ素は、甘くはないのだろう。