なぜ私の財布には「ツユダク」シールが貼ってあるのか

 日清カップヌードルといえば二十世紀の日本が世界に誇る発明品の一つだが、私の母が以前このカップ麺を評して「一年に一回だけ食べたくなるけれど、それ以上絶対に食べたくない味」と言ったことがある。一個買ってミズヤに入れておくと、ごくたまに、どうしても食べたくなって一人でモサモサと食べてしまう。ところが、いざ平らげてしまうと「どうしてあんなものを食べてしまったのだろう」「もう二度と食べるもんか」と思うのだそうだ。

 もう見たくもなくなるというのは単に腹が一杯になったからではないかと思うのだが、それはともかく、定期的に食べたくてしょうがなくなる物は確かに存在する。私の場合は吉野家の牛丼であって、時々どうにも食べたくなる瞬間がある。最近見た、スマップの中居正広が出てくるコマーシャルは、がつがつと牛丼を食べた彼が一言「うまい」とつぶやく物であり、そのあたりの需要(といっては変だけど)を狙ったものだろうと思うのだが、正直言ってあれを見てどうという感慨は湧かなかった。牛丼という食べ物は、他人が食べる姿を見て自分も欲しくなるたぐいの食べ物ではないらしい。

 とにもかくにも、私はその朝、牛丼が食べたくて仕方がなかった。日曜日に早く目が覚めてしまった私は、パソコンを立ち上げてテキストエディタを開き、三回「牛丼」と書き込んで閉じ、冷蔵庫の中を覗いてみたり床下収納のパスタをためつすがめつしたあと、決然と立ち上がった。幸せそうに眠りをむさぼっている妻に片手でスマンと一礼してから、小銭入れをポケットに入れると、ひとり駅前の吉野家を目指したのである。ダメな街高円寺はやっぱり朝も遅い街なのだが、善かれ悪しかれ吉野家は眠らない。

「並と味噌汁」
と、普通すぎて読者の期待を裏切る注文を私が店員に告げた店内は、ガラガラというのではないにしろ、混んでいるとはいいがたい状態だった。この駅前の吉野家にもこんな時間があるのだなあ、と思ったかどうか、読みかけの文庫本を持ってこなかったことを心底後悔しながら読むべき活字を探す衝動を壁のポスターでなだめようとする私の目は、ふと、新たに店内に入ってきた女性にとらえられた。

 一人で牛丼屋に入ってくる若い女性が珍しいかどうかと誰かに聞かれたら、答えとしては「珍しい」にならざるを得ないのだが、といって思わず目を奪われるほどではない。珍しかったのは、彼女が着ている服が、どうも「ぱじゃま」ではないだろうかという点なのであった。いくらここが迂闊な街高円寺でかつのんびり和やかな店吉野家だと言っても、これはちょっとひどい。さすがにパジャマの上から短めのコートを羽織っているのだが、不注意な恰好には違いない。

 あ、そうだ入院患者がよくやっている恰好だ、と私が思ったのが早いか遅いか、その女性はカウンターにつき、出てきたお茶に目もくれずに、こう店員に言った。
「並盛り、ツユダク二丁。持ち帰りで」
 なんだか、必要以上の大声であるように思えてならない。うっかりなのは恰好だけじゃないんだなあ、と私がしみじみ思っていると、コートのポケットから携帯電話を取りだすと、何者かと話をはじめた。私はベニショウガをとるふりをしてそっちを盗み見ていたので、そういうことがわかるのであった。知らない方のために説明すると「ツユダク」というのは牛丼の頼み方のバリエーションである。「いつもより多めに回しております」というのと同じくらいのサービスだと思えばよい。

 さて、それを知るのに聞き耳を立てていたわけではないのだが、女性の話し相手は男性の同居人であるらしかった。まだ寝ている男に朝の牛丼並盛りツユダクを買って帰るこの女性。以上のような情景を想像するのに、洞察力はあまり必要ない(しかし変な光景ではある)。ああ、何と素晴らしい。見習え、我が妻よ。待てまて、恰好は見習わなくていい。
「えっ、なんて」
 あれ、関西出身ですか。
「ツユダクや、て。え、そんなこと言うてなかったやん。うそ」
 どうも、女性と部屋で寝こけていた男性との間に連絡不行き届きがあったような雲行きである。女性の表情は伺い知れないが、声にはいかにも困惑がにじみ出ている。そんな男、捨てちゃえ捨てちゃえ。
「もう頼んでもうたよ」
 最近ないがしろにされているが、吉野家の美点には「出てくるのが早い」ということもある。そのとき既に店員は並盛りのパッケージを二つ、お持ち帰り用のビニールに詰めようとしているところであった。店員の手がぴたりと止まり、恐怖の目で女性を見た、ように見えた。私には。

「え、その」
 どうなるんだろう。ツユダクは、ツユを捨ててツユナミにできるのか。あるいはツユダクは二度と帰れぬ修羅への道なのか。つまようじを取るふりをして見守る私の前で、女性は、実に短絡的な解決法を取った。
「すいません、並をもう一つ下さい。ツユダクじゃないやつ」
 ツユダクと普通のを混ぜて二で割ってもツユダクでなくなりはしないよなあ、などとアホウなことを考えている私の預かり知らぬところで、女性はある決断をしていたのだった。そして事態はここから急展開を迎える。

「これ、食べますか」
 そう、千二百円を払い、三つ目の牛丼を受け取った女性が振り返った先に、私がいた。私しかいなかった。そして、あいまいにうなずいた私の手に渡された持ち帰り用牛丼並のフタには「ツユダク」というシールが貼り付けてあったのであった。私はツユダク、女性、ツユダク、と視線を飛ばして、三回目に女性を見たときには、ハードボイルドな街高円寺のどこかへと女性の姿は消えてもうなかった。「ツユダク」のシールの赤だけを残して。

 というわけで、それ以来、私の財布には「ツユダク」と書かれたシールが貼られているのである。

 愉快なのである。


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