オーバーキル・クロッシング

 みんな平気でやっていることではあるのだが、自動車をうまく運転するというのは大変なことである。まず、運転免許を取得すること自体、難しい人には難しい。私が免許を取ったのは、今から思うとナンとびっくりハタチ前だったこともあり、さしたる苦労もせず、若さに任せて取ってしまったようなところがあるのだが、もちろん教習所で習う通り一遍の知識は、自動車を実際の街路で運転するために必要であっても十分ではない。それらの付帯的なノウハウは実際に運転しながら体で覚えてゆくしかないところがあり、よくぞ事故も起こさずにどうにか運転を続けられたものだと、思い返すだに神妙である。たぶん、私の運転歴のはじめのほう、田舎ばっかり運転していたのがよかったのだと思う。

 そもそも、自動車の運転には、ある程度運転時間を積み重ねてゆかないとなかなか身に付いてこない「感覚」のようなものが存在する。私ははじめ、車庫に車を出し入れするときに、今ハンドルが正位置に戻っているのか、それとも一回転した状態なのかわからないことがよくあって困った。もっと普通の運転感覚、たとえば自分の車が左側の壁からどれくらい離れているかといったことで悩むなら分かるのだが、丸々一回ハンドルが回っているかどうかなどというデジタルな具合がわからないのはどうかと思う。すぐ慣れてしまって、今やほとんど感覚的にそれとわかるが、説明せよと言われてもなかなか難しい。

 さて、そういう説明しがたい感覚の一つに「青信号で交差点に進入してよいか」ということがある。青はススメであってもちろん普通の場合は構わないのだが、問題はその先が渋滞して車がぎっしり詰まっている場合である。ぎっしりがどの程度ぎっしりなのか、ぎっちりなのかみっしりなのか。自分の車一台分、交差点から抜け出すことができるや否や、いよいよせっぱ詰まるだいぶ前にそれを見極めて、交差点に進入するのか直前で止まるのかを決断しなければならない。前の車にくっついてのほんのほんと運転していて、交差点の中で気がついてももう遅い。前の車が横断歩道辺りから先に進まなくなったまま信号が赤になったとなると、それは恐ろしいことになるのである。交差点の真ん中で天を仰いで立ち往生なのである。

 ただ、この場合は、まあ、落ち着いて考えてみれば、交差する道の車通りをちょっと妨害してしまう、というだけのことだ。どうも、安全地帯から自分だけハミ出しているという状態がほとんど動物的な恐怖を私に巻き起こすのだが、たとえば自分の車が道を完全に塞いでしまうような最悪の場合でも、せいぜい信号が一巡する間左右の車に我慢してもらえば、なんとか窮地は脱しうる。みんな怒るだろうし私は腹を切ってお詫びしたい気持ちなのだが、まず、冷静に考えてそれ以上の大事になるわけではないのである。

 しかし、このスキルについて、もっと恐ろしい事態がある。この「入れてよ、ぼくも入れてってば」状態は、理論的には鉄道の踏み切りでも起こり得るのだ。これは恐ろしい。信号とは違い、いつ警報が鳴りはじめるかわからないので、あとどのくらいで赤になるのかという見極めもできない。電車というのはあれはシャレの通じない交通機関であるから「いやあ、スマンスマン」とぺこぺこしていればいいというものではない。何としても抜け出さなければ危険が危ない死亡が死ぬ。前の車を突き倒して脱出しても電車を突っ転ばすよりよほどマシであるほどの緊急事態に陥るのである。

 実は、私が運転免許をとって間もなく、まさにそういうことになった。おほんおほんと運転していたら警報が鳴りはじめ、気がついたら自分が踏み切りの中にいて、前のほうはよく見えないがみっしり詰まっているようであり、しかも前の車はまだ踏み切りから出きっていなかったのである。このときは、前の車がちょっとずつ詰めてくれて(そういう風に見えた)、なんとか電車が来る前に踏み切りから抜け出せたのだが、遮断機が私の車に向かって降りてきて、後ろの窓ガラスに当たったほど、ギリギリだった。JR福知山線をマヒさせたりせずに済んで本当に良かったと思う。

 そういうトラウマがあって私はそれ以来踏み切りでご飯は食べられなくなっているのだが、世の中にはいろいろな人がいて、恐れず踏み出す人もいる。警報が鳴っているのに平気で踏み切りを強行突破し、あまつさえ降りている遮断機を折っていってしまう、ということがあるそうである。遮断機の修理費用がばかにならないので、折られないように太くてめったに折れない(当たったら車のほうが壊れる)遮断機に取り換えるところさえある、と新聞に出ていた。いざというときに車のほうが壊れるといろいろ困ることもあるかと思うが、そこをあえてやっているところになんだか凄みを感じてしまう。

 二年ほど前の私なら、踏み切りくらい待てばいいじゃないか怖いんだぞあれは、と言っていたところだと思うが、最近少しずつ、その「踏み切りなんか待っていられるか」という心境が分かってきたような気がする。高円寺に住んでいたころしばらく、和光市までの十五キロほどの道のりを自転車で通っていたことがあって、通勤路の途中に踏み切りがあった。西武新宿線と道路が交差しているのだが、これがいわゆる「開かずの踏み切り」だった。

 私がそれまで踏み切りに対して持っていたイメージというと、こういうものである。大平原にまっすぐに伸びた道路がふと線路と交差する。列車の姿も見えないのに警報が鳴りはじめ、やがて遮断機が降りて私は車を止める。待つほどもなく、ごうと列車が通りすぎ、地平線の彼方へ消えてゆく。遮断機が上がり、私はふたたびドライブを続ける。みなさんは大げさだと笑うだろうが、JR福知山線は実際そんな感じである。

 ところがこの西武線は、違うのだった。まず、一回の遮断で通る電車が一本ではない。左から右へ、右から左へと三本は通過する。電車が通りすぎて、では、と思ったら次の電車があって遮断機はちっとも上がらない。これはなかなか神経にこたえるものである。駅が近くにあるのか、やけにのろのろと電車が走っているのも気にくわないし、電車と電車の間に妙な間があってこのスキに少しくらい通してくれてもいいじゃないかとも思う。ずっと「カンカンカン」という警報が鳴っているのも耳障りだ。

 そもそも、遮断機は電鉄会社が設置してコントロールしている。自動車や自転車の交通を遮断しても鉄道側が困ることは一つもなく、むしろみんな電車を利用してくれるようになるはずなので、ちょっとくらい余分に遮断していても何も不都合はない。安全性に疑問を残してまで円滑な交通の実現に努力する必要などないわけである。安全をビタ一文分けてなぞやるものか、という主義で制御されていても自然なことだ。そう考えはじめてしまうと、ふつふつと怒りが湧いて来るのだ。電車事故から我々を守ってくれていると思っていた踏み切りが、悪の手先であるような気がしてくるのである。強行突破はしなかったが、したくなる気持ちはわかる。

 実を言うと、この踏み切りは今年のはじめ、秀吉の一夜城のような手際でもって鉄道が高架化されてしまったため、今はもうない。鉄道線路と踏み切り設備はまだ残っているが、二度と遮断機が降りることはない。西武はちっとも悪の親玉ではなく、巨費をかけてこういう思い切ったことをしてくれたのであった。開かずの踏み切りで大量の車を待たせているという感じが、意外に電車の運転士のほうにも心理的な重圧となっていた、ということがあれば面白いが、まあ、そういうことはなくて、事故防止などの必要があるのだろう。

 ところで、最近引っ越しを行ったのだが、現在の通勤路の途中にまた開かずの踏み切りがあるのを発見してしまった。私は中途半端な位置で車を止めて、ウサギのように震えながら遮断機が上がるのをひたすら待っているのだが、JR東日本はいかにも悪の親玉っぽいので、高架化はしてくれそうにない。


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