日曜日。至福の一時。茶の間でテレビをつけっぱなしにしておいて、図書館から借りてきた本を読んでいたわたしを、母が覗いてこういった。
「佳子、お父さん呼んできてくれない」
本はいいところだしテレビももうすぐ「王様のブランチ」の時間なんだけどな、と思ったわたしは、思いきり不満そうな顔をして母の顔を見返す。母はわたしに向かってちょっと手を挙げてみせて、こう言った。
「緊急なの」
しかたがない。客観的にみてかなり甘いところがあるわたしの母だが、決して破ってはいけないいくつかのルールがあって、しなければならない仕事は絶対にしなければならない、というのがその一つだ。わかりにくいが、まだ小学生だったとき、ささいなことで(母が勝手にわたしのマンガを捨てた、ということが原因だったが)家出をしたわたしが、しかしお風呂の水を張りにだけ戻ってきた、という話をすれば、そのことが少し分かってもらえるのではないだろうか。要するに、母がわたしに緊急の頼みごとをしたら、わたしは断るわけにはいかない、ということだ。
わたしは本を置き、しぶしぶテレビを消すと、母から梯帯を受け取って腰に巻いた。
「お父さん、天梯なんでしょ。いまどの辺なんだろ」
「さあねえ。とにかく、お願いね」
わたしは、せめてもの抵抗として大きくため息をつくと、二階への階段を上って、掃き出し窓を開けた。隣の家の屋根との間に小さく区切られて、間に見える空は、しかしすばらしい陽気で、まるで真夏のような思い切った青さの中に、雲が一つ二つと浮いている。つまり、わたしのような根っからのインドア派にとっては恨むべき天気だ。つばの広い帽子を頭にのせてあごひもを締め、決然としてわたしは屋根の上に出る。天梯がわたしの目の前で、空をまっすぐに切り裂いて、はるかにそびえ立っている。
天のはしごを登るには、守らなければならない手続きがある。まず、上のほうの段から下がっている天紐を腰の梯帯に引っかけることだ。梯段を一段ずつ登ってゆき、この軽いロープがいっぱいに伸びたらそこに次の天紐の端がぶらさがっているから、梯帯に付け替える。引っ張ってきた天紐は、下りのために梯段にひっかけて置いておく。この手順さえ守っていれば、梯のどこかで手がすべっても、地面まで落っこちるというようなぶざまなことにならずに済むのだ。とはいえ、昔はナイロンのような軽くて強いロープも簡潔な固定具もなかったから、なかなか面倒だったらしい。重くて信頼性がない天紐を使って、祖母の世代は梯を上り下りしていた。
わたしは最後に一回、深いため息をつくと、ぐっと息を止めて、最初の段に足をかけた。長い長い間に、天の梯の梯段はすり減って、磨かれたように滑らかになってしまっている。わたしの祖母も祖父も、その祖父母も、名前も知らない彼らのきょうだい達も、この梯を上り下りしていた。ぴんと張っていた天紐がゆるみはじめ、わたしは屋根を越えると、まだ高く、高く、登ってゆく。涼しい風が吹き抜けて、我が家の屋根が陽光を跳ね返して眩しい。太陽に温められた、古い木の匂い。
わたしは梯をぽいぽいと登ると、たちまち二本目の天紐が揺れる最初のポイントにやってきた。梯帯に二本目のロープを固定して、最初の紐を外してから、ちょっと力を込めて引っ張って段の金具に引っかける。見回せば、お隣の庭に繋がれている柴犬のコロが、こちらを見てわんと鳴いた。わたしは軽く手を振ると、天紐の固定をもう一度確かめて、梯を登る。視界が徐々に開けてきて、すっかり葉桜になった裏庭の桜が緑に揺れている。お隣の庭に小さい桐子ちゃんがころがるように出てきて、コロと何かを話しているらしい。
そういえば、天紐のついた梯段には、いつごろ書かれたものか、漢数字で数字が振ってある。「二」の天紐が伸び切った先には「三」の段があり、「四」のロープをつけて登っていくと「五」の段で紐が伸び切る。「八」の次はなぜか「十」で、そうかと思うと「四」だの「四十九」は平気であったりするので、どういう理由があるのかわからない。小さいころから数字の順番のいろいろな可能性を考えてみるのが、天梯をのぼる時のわたしの習慣だったが、もうそんな思索もすっかり摩滅してしまった。つるつるになった梯段を撫でるようにひとしきり考えただけで、今のわたしは、さっき読んだ本の続きを想像しながらのぼっている。
どれだけ登ったろう。同高度を飛んでいた鳥が、くるりと翼をひるがえし、眼下に向かって飛んでいった。遠い鉄道をのんきに進んでゆく列車が見える。よう、という声が聞こえたような気がして、ふと横を見ると、そこに男の子がいた。突然に人がいたので、ちょっとひるみながらよく見れば、お隣のタケちゃんだ。タケちゃん家の天梯を、同じように登っているらしい。
「や、益城さん」
目が合って、そうわたしの姓を呼んだ彼にこたえて、タケちゃん、と呼びかけそうになって、わたしはふと口ごもった。なんだか凄く久しぶりに会った気がする、一つ年下のお隣の男の子を、昔のように「タケちゃん」と呼んでいいものかどうか、悩んでしまったのだ。天紐をくい、と引っ張るふりをしたあと、わたしの口はようやく「こんにちは」と言葉を作る。
「こんにちは。何してるの」
「お父さんを呼びにいかなくちゃならなくなったの」
「大変だね、益城さん」
「まあね。あなたは」
悩んだあげく「あなた」はなかったかな、と思ったわたしだが、他に言いようがなかったのだからしょうがない。タケちゃんも、タケルと呼び捨てにするのも、稲元君と呼ぶのも、なんだか場違いな気がしてしまうのだ。
「いや、アンテナがおかしくなってさ」
「へえ」
わたしは複雑な気持ちだった。開けてゆく景色と自分の中だけを眺めながら登っていて、急に仲間ができても、ぺらぺらと喋る気になれなかったのだ。相手がタケちゃんとなればなおさらそうで、いや、べつにタケちゃんが不快な相手だというわけではないのだけれども、これが友達の美樹や真里子なら良かったのにと思うのだが、自分を取り繕わねばならないのが、いかにも気が重い。
「大変ね」
と精いっぱいお姉さんらしく、そう言ったわたしを、笑って見返して、タケちゃんは言った。
「そうでもなかったよ」
え。
「十分くらいで終わったかな」
「そう、なの」
今、降りているところだったんだ。
「それじゃ」
「あ、あの」
既に梯を何段か降りて、怪訝そうにわたしを見上げるタケちゃん。
「わたしのお父さん見なかった」
「ううん、見なかった」
「そ、ありがと」
うなずいて、タケちゃんは、軽やかな飛ぶようなスピードで、たちまち下に降りてゆく。
タケちゃんを見送って、わたしはほっとしたり、奇妙に気の抜けたような気持ちになったりして、遠くを見つめた。近くの優しげな山容の向こうに、いつの間にか遠い山脈の連なりが見えている。その先にあるはずの海は、もやに覆われたようで、よく見えない。わたしはひとつ深呼吸をして、また登りはじめる。父はまだ上の方にいるらしい。