単に「なんとかマン」と言った場合、我が国ではいつの頃からか「『なんとか』という特徴を持ったヒーロー」という意味を持つようになった。言うまでもなくこれは、優れた人、超人というような意味であったスーパーマン、ウルトラマンといった偉大な先達に続くヒーローがこぞって「なんとかマン」を名乗ったためで、一連の特撮ドラマやヤッターマンに続くアニメシリーズ、それからパロディとしての「キン肉マン」あたりが「マン=ヒーロー」の図式を定着させた首魁ではないかと思われる。
かくいう私も以前「スピードマン」という、小説ともシナリオともつかない一連の物語を書いたことがある。この主人公にはスピードが速いという側面は実はあまりなく、いささか羊頭狗肉のそしりをまぬがれないネーミングであった。が、ともかく変身ヒーローには違いなく、そこのところを裏切ることは考えもしなかったので、何とかマンがヒーローの名称であるという認識は、説明の必要がない一般常識と考えていいのではないかと思う。
とはいえ、一方ではもちろんサラリーマン、セールスマン、カメラマンといった普通の「マン」の意味も日本語には判然として残っている。こちらの方もかなり強固に人々の間に根を張っていて、だからだろうか、カメラの恰好をしたヒーロー「カメラマン」、背広にネクタイを結んで名刺を渡して攻撃する「サラリーマン」のように、複数の意味間の混同を狙って笑いを取ることが難しくなってしまっている。本来の英語では「マン」が人間ではなく男性を指すということから、性差別の見地からたとえば「チェアマン」を「チェアパーソン」と言い換えたりされているが、そういった運動が完全に普及すれば「マン」は男性ヒーローだけを指す言葉として我が国で生き残る、などということがあるかもしれない(もっとも「サラリーパーソン」と言い換えよ、という主張はそういえばあまり聞かない。和製英語なのだろうか)。
さて、そういったあまたある本来のマンはほとんどが文字通りただの人であるのはしょうがない。ガードマン。強そうだが、実情は守衛の人の善さそうなおじさんに過ぎない。商社マン、銀行マン。傾きつつある日本経済にとってそれが恰好いい仕事だろうか。ガンマン。う、ちょっと恰好いいが結局はならず者、アンチヒーローにしかなり得ない。早稲田マン。そんな言葉はだれも使っていない。ドーベルマン。犬じゃないか。
しかし、このすさんだ世の中にも真のヒーロー、真のマンは存在する。しかもあなたのすぐ近くで今日も活躍しているのだ。もしあなたがデスクトップパソコンを使ってこのページを見ているなら話が早い。ちょっとパソコンの、正確に言えばモニターの裏っちょを見て欲しい。
(カミナリマーク)内部は高電圧の部分があり万一触れると危険ですから、サービスマン以外は裏ブタを開けないでください。
そう、彼の名はサービスマン。消費生活を支える電化製品のプロフェッショナルなのだった。チェアマンは議長のイスをきゅうきゅうとして守るだけの俗物に過ぎず、イエスマンはいいなりになっているだけだ。しかし、サービスマンは違う。そういう凡百のマンにない、サービスマンには強さがある。何しろ誰もが恐れるテレビの中の高電圧もへいっちゃら、腕一本で食っていける技術者なのだった。スポーツマンやアイデアマンにはちょっと真似できない。しかも、そういう力強さに一握りの優しさ(サービス)も忘れない。素晴らしいじゃないかサービスマン。
昔、学生の身で無理をしてビデオデッキを買ったら、音がうるさくてならなかったことがある。テープを入れて、電源を入れると「うぃー」という音が間断なくしつづけるのだ。確かにビデオデッキは、テープを入れると普通ある程度のアイドル音がするものだが、このデッキはちょっとひどかった。裏番組録画をしていると、表番組を気になって見られないほどの音だったのだ。夜中にタイマー録画を仕掛けると、騒音で目が覚める。それでいて録画再生という基本機能はまったく問題なく稼働しているので故障というわけではないらしく、以上を勘案するとどうやら「仕様である」「安物なのでしょうがない」という結論になるのだった。私は人知れず泣いた。
ところが、あるとき、入れたテープが引っ掛かって出てこなくなった(慌てて付記するが別にエロビデオのカセットというわけではない)。私は虫の居所が悪い時など、このうるさいデッキをしょっちゅうホウキで折檻していたので、騒音から逃れられるという安心と虚脱感の入り交じった複雑な心境だったのだが、それなりに高い買い物ではあるので、試しに販売店に電話をしてみた。
「了解しました。では、サービスマンがそちらにおうかがいしますので」
え、来てくれるの。私はてっきりビデオデッキを買った日本橋の電気屋まで持ってゆかねばならないものかと思っていたのだった。
「はあ、お願いします。いつになりますか」
やたらと愛想のよい電話の向こうでちょっと間があって、答えが帰ってきた。
「本日午後三時ごろではいかがでしょうか」
私はかなり驚いた。早い。サービスマンは呼べばいつでも現れるらしい。
やがて現れたサービスマンは五十がらみのおじさんだった。愛想よく私から事情を聞くと、決して奇麗ではないアパートで、手早くビデオを分解し、鞄から使い込んだ工具を取りだして中をむにゃむにゃと触って、パーツを交換し、十五分ほどで組み立て直して、電源を入れた。中で複雑な機構ががちゃがちゃと動き、安定して回転をはじめた。
「大丈夫のようですね」
「あ、ありがとうございます。最高です」
こつこつ「ムイミダス」だの「やっぱり猫が好き」だのを取り溜めたカセットが無事戻ってきた上に、あのうるさい音がぴたりと止んでいたのである。果たしてあの音も故障の一部だったらしい。
「保証書はありますか」
「いやそれが」
探せばあると思うのですが、この部屋から探索するのはなかなか容易ではなく。いや、聖杯よりは簡単に見つかると思いますが。
「いやまあ、結構です。店の方にはデータベースで残っていますし」
「そそ、そうですか。ありがとうございます、ありがとう」
そして、サービスマンはさっそうと去ってゆき、ビデオはその後の10年間、私の役に立ち続けたのだった。しかし、サービスマンの戦いは終わらない。今日もどこかで日本の技術を根底で支えているに違いないのだ。恰好いいぞサービスマン。昼間のパパはちょっと違うぞサービスマン。いろいろと大変なことはあるけど、負けるな、下唇を噛んでサーヴィスマン。
あと、ボイラーマンも、恰好いいかもしれない。