かつて伝説的な内閣支持率の低さを達成した森首相(当時)が、支持率の低下に鑑みて退陣すべきではないか、と国会で追求を受けたときに、こういうような答弁を行った。
「国民から支持されていないとおっしゃるが、そうはいっても私が出席する集まりでは『支持しています、頑張ってください』という声が大きくて、そういう人がほとんどです。これもまた調査ではないでしょうか」
至言である。首相の出る集会にはそりゃまあ当然支持者が集まるので、首相は偏ったサンプルから統計を取ることで「支持されている」と勝手な判断を下してしまっているのだが、この首相だからしかたがないか、としてしまえない真実がここにはあるのではないだろうか。
そもそも民主主義国家である限り、最高の世論調査は選挙であるべきであって、新聞が発表する「内閣支持率」などはあくまで補助的な数値にすぎない。いかに良心的な調査でも、経済的な事情、速報性の維持のために、結果にはある程度の不確実性が残らざるを得ないのである。たとえば調査の対象にした人間の数(サンプル数)は有権者数に比べ非常に少なく、人選にもある種の不公平が必ずある。質問の文脈による結果の偏りからも逃れがたい。
ここで首相は追求者に向けて「しかしではあなたの調査にはどの程度の信頼性があるのか」「私の偏った統計意識と似たりよったりじゃないのか」と反問しているのだ。「支持率七パーセント」と「集会での圧倒的支持」は支持率というあやふやなものの二通りの見方であって、どちらも誤っているということもできる。確かなことは、少なくとも国会の過半数の支持を受けなければ首相は首相でいられないという事実があるということである。悪しからずこれぞ民意ではないか。
もっとも、森元首相が統計の事など全くなにもわかっておらず、天然ジネンにこの答弁をした可能性もあり、そこのところが考えてみれば彼の侮れないところではある。かように国のトップの、統計、科学に対する無知はブラックな恐怖を巻き起こすもので、ハリー・トルーマンとされていたと思うが、アメリカの大統領にも似たような逸話がある。
「トルーマン大統領は『アメリカの児童の半数は平均以下の学力しか持たない』という事実に憂慮の意を表明した」
真偽のほどはともかく、もちろんこれは「平均以上の学力」と「平均以下の学力」の児童がそれぞれ半数いるはずであるという知識(しかし大統領はそれに気づいていない)を背景にしている。
が、これもまた見かけほど単純な話ではない。読者はご存じかどうか、いわゆる「平均」「平均的な」という言葉には少なくとも三つの微妙に異なる数学的意味がある。
(1) 算術平均。全員の(たとえば)テストの点数を足して人数で割ったもの。これが普通一般の「平均」である。
(2) 最頻値(並数)。この成績の児童が一番多数層だ、という点数。グラフで描いた時、山が最も高くなるところ。
(3) 中央値(中位数)。上から下まで順位を付けたとして、ちょうど中央の順位の児童の点数。
この三つの「平均」のうち、上の大統領の意味で平均なのは(3)だけである。中央値が他の二つと一致するのは、全員の点数が平均の両側に対称に分布している場合ということになる。つまり、たとえば絵に描くときれいな釣り鐘型の分布をしていた場合などで、確かに物事はたいていそんな感じにゆくのだが、必ずそうなるとは限らない。
詳しく見てみよう。今、ある二〇人クラスの学力がかなり非対称な分布をしていたとする。たとえば一人だけものすごい秀才がいて、あとはひとしなみにパッとしないような場合。テストをすると秀才の一人が百点を取るが、残り一九人全員が二〇点しか取れない。すると、クラスの(算術)平均得点を算出すると二四点ということになる。なるほど「クラスのほとんど全員が平均以下の得点しかとれない」と正しく言えるのである。
といってこれは異常なことではない。国中の児童に同じテストを課してその得点を比較したような場合でも、算術平均と中央値が大きくずれることはある。片方だけ挙げれば、テストが非常に簡単で、かなりの児童が満点を取ってしまうようなケースだ。この場合、いくら頭が良くても満点以上を取ることはできないので、全体の点数の分布は百点のかなり近くにピークがあり、長い尾を〇点に向かって延ばすものになる。全体の得点の算術平均は、少数ながらいるに違いない、非常に悪い点を取った児童(たぶん寝ていた児童)に引きずられて中央値よりも低くなりやすい。この場合は「大部分の児童は平均より良い点数を取った」と判断されてしまう。
さらに、テストがよく考えられていて、百点や〇点を取る児童がほとんどいなかったような場合でも、分布が左右対称にならない原因はいろいろ考えられて、一つだけ指摘すれば国の教育方針が「最低限の教育を全員に。出る杭を打ち込もう」であるのか「少数の英才に高度な教育を行いあとはソコソコ」であるのかによって差ができる(可能性がある)。現実にはこのどちらかの理想を掲げたとしてその通り教育が行われるかというとそんなことはないと思うが、平均値よりも高い点数をとった児童が多いか少ないかという情報から、いまの教育の現状がこのどちらに近いのか、乱暴ながら推測できるとも言える。
例の大統領は、現在の児童教育が、平均的教育か、英才教育か、どちらであるかはわからないものの彼の理想とかけ離れており、正規分布に近い、ランダムな教育になってしまっていることに憂慮の意を表明したのかもしれない。この場合も元首相と同じように単なる私の買いかぶりである可能性は高いが、平均値という数字一つだけをとっても、このようになかなかに奥が深いもので、しょうがないかという気にもなってくる。
ただ、政治家は、考えてみると何をおいても統計に精通していなければならない職業ではある。「民意」というつかみ所のないものを反映して施政を行う限り、そうならざるを得ないのだ。国会議員全員に統計のテストを課し、結果をグラフにしてみたらどうなるだろうか。想像だが、ほとんどの議員が平均以下の得点しか取れない、ということになるのではないだろうか。