自分のパソコン

 パソコンを使っていると、新しいのが欲しくなってくる。今使っているマシンが故障したわけでもないのにそれでも欲しくなってしまうのは、私がダメな人間であるという理由の他に、パソコンという道具が急速な技術革新の途中にあるということがあるだろう。最近はやや進歩のスピードが鈍ってきた感があるものの、やはり去年のものより今年のもののほうが確実に性能がよく、安く、場所をとらなくなってきている。欲しくなるのも無理はない。

 ところが、こうして決意して新機種を買ってみて、ちょっとがっかりするのは「中身が同じだ」ということである。私は縁あってずっとマックを使っていて、これまで三回、メインで使っているマシンを乗り換えたのだが、それまで使っていた機体からデータやアプリケーション、システムの設定などをコピーして使いはじめると、突然「こんなはずではなかったのに」という軽い失望を味わっている自分に気がつくのだ。

 もちろん、反応はずいぶん速くなっている。メモリやハードディスク容量は常磐自動車道のようにガラガラだし、画面も広くなった。機体そのものも素晴らしく恰好よくて、あらためて眺めてみると思わずニヤニヤしてしまう(ごめん。私にはそういう俗物的なところがある)。しかし、いざ電源を入れて作業を始めてみると、今までできなかった何かを探そうとして、そんなものはないことがわかるのだ。MacOSはMacOSに過ぎず、新しいことはなにもない。かなりなお金を支出したのに、そんなことでは困るじゃないか。がっかりじゃないか。
 そういう経験をしたことがない方も多いはずだが、たとえばこれはベッドを買い替えた感想に近いかもしれない。いかに広いベッドを手に入れたところで、自分の寝るスペースはやっぱりタタミ一畳以上必要ない。枕が変わってもするこた同じなのである。この悲しみをどうすりゃいいのだろうか。

 しかし、逆にこれは慣れ親しんだ「自分のパソコン」というものが基本的に不滅であるということでもある。忘れずにバックアップを取ってさえいれば、新しい機種にデータを移すことでいつまでも同じ感覚で使い続けることができる(まあ、アップルの製品なので本当のところはわからないが)。改めて考えてみるとこれはかなり素晴らしいことなのだ。なにしろ我々人間は古くなった体を捨て、データを新しいボディに移し替える、などということはできないのだから。

 この「体の買い替え」がどうしてできないのかというと、今の技術ではできないというだけのことで、原理的に絶対にできないわけではない。たとえばMRIのように体の断面をイメージ化する装置があるが、あれをどんどん精密なものにしてゆき、脳細胞一つひとつが持っている情報全てを取得できるようにする。この情報を元に「私のバックアップコピー」を制作するのだ。私の脳と同じように動作するハードウェアを再構築するほうは、技術の進歩次第で、どうにもならない問題だとはちょっと思えない。私の脳そのものを作ることはできなくても、脳の機能をシミュレートするコンピューターは少なくとも生産可能であるはずである。そうすれば、あとは得られた「私」をコピーするだけだ。

 完全に動作する私のコピーが存在するというのはどういう気持ちだろうとよく思う。このバックアップコピーが、私の肉体を完全に再現した、クローンのような体の上に再現されれば、それは単に「朝、目が覚めた私」なのだろうなと想像がつく。そこまで完璧でないコピー、シリコンと銅とベークライトの上で動くソフトウェアに再現されたとしたら、どうだろうか。残念ながら私自身に関して言えば「私にそっくりな受け答えをする機械があるなあ」という感想以上のものでないのは確かなのだが、マシンの上で再現された、その「私」のほうはどういう気持ちなのか。

 なにしろ目が覚めたら機械の上で動作するソフトウェアだったという経験がないので、本当のところはわからないが、たとえば、速度の遅いマシンにコピーされた「私」は、自分の頭の鈍さにイライラするのだろうか。それとも周りが極端にせかせかしているように感じるのだろうか。突然の停電で電源を切られた「私」はぶん殴られて気絶したような状態だろうか。もし「私」がシステムエラーで止まって再起動されても、私のパソコンがそうであるように、セーブしたところから意識が継がれて何事もなかったように感じるのか。スリープやシステム終了は、眠りであり死と感じるのだろうか。また起動してもらえるという期待があれば死は怖くないものだろうか。

 今のところどうにも「ジャッキー大西バージョン1.0」が走るパソコンはないので、こういう問題は想像上のものでしかない。ただ、話しかけると私のように答えるパソコン、メールを書くと私に代わって返事を書くソフトウェアを作ることは、採算や手間を度外視すれば今の技術でも可能かもしれない。外部からの入力、たとえば投げ掛けられるあらゆる言葉に対して、私がどう感じ、どういう答えをするか、という対照表を、私がこつこつ作り上げて完全なものにしたとすれば、その表を入力されたコンピューターは確かに私のようにふるまうことになるからだ。実質上、そこに私がいる、と言ってもいい。

 そういえばここまで三百回と少し、曲がりなりにもここに文章を書いてきたわけで、このサイトは私のコピー、あるいは控えめに言ってかなりよい近似値になっているのではないかと思うことがある。私が虫について何と言うか、飼っていた猫についてどういう話をするか、ということは「読めばわかる」のである。このままこれを続けていけば、どんどんこのページは「私」になっていくのかもしれない。

 ここで、もうひとつだけ、かなり大それた希望を書かせていただきたいのだが、もしもあなたがこのページを読んで、私の文章に何か感じるところがおありだったとしたら。あるいは、記憶にとどめていただくだけでなく、もしかしてもしかして、少しだけでも影響を受けてくださったとしたら。もしあるとき「こういうとき彼ならこういうだろうなあ」と想像してくださったとしたら。
 それは、あなたの中に私のコピーが生まれた、ということにほかならないのではないだろうか。


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