昔読んだ小説にこんなシーンがあった。男が女に「いくつ」と質問する。女が「一八」と答えて我に返ってみると、そこは喫茶店で、砂糖壺から角砂糖をとりだそうとする男が驚愕の表情で女を見ている。
「飽和するじゃないか」
ここで本当に一八個入れてしまう人もいないと思うが、実は砂糖は水にかなり溶けるので、なんとか角砂糖一八個分、溶かしきれないことはないかもしれない。中学校の理科で、塩が百グラムの水にどれだけ溶けるかという実験に際して「飽和」という現象を学ぶ。この教科書に「ショ糖」の溶解度として、水百に対して二百を越える数字が書いてあるのである。塩の数字、およそ三十に比べてこの雄大なこと。
溶解度が二百もあるということは、たった百グラムの水に対して二百グラムあまりの莫大な砂糖が溶けるということだ。なんとなく、溶かすもの(溶媒)より溶けるもの(溶質)のほうが多くてはいけないような気がして、私は子供の頃この実験をやってみたくてならなかった。なにしろ、水のすき間に砂糖が溶け込んでいるというよりは、砂糖と砂糖の間を水分子が繋いでいるようなありさまだ。実験の結果できるものが辛い塩水ではなく砂糖水だというのも素晴らしくて、実験は楽しいだろうと思う。
ただ、教科書で与えられている数字は砂糖ではなく「ショ糖」という得体のしれない物質についてのものである。手元の砂糖とこの「ショ糖」はどこが違うのか、砂糖でもやっぱり二百に近い溶解度があるのか、そこがわからなくて私は結局実行に踏み切れなかった(※)。わからないから実験をやるのであって、書いてないからできないという態度は間違っているのだが、あらかじめ上白糖で実験をやって結果を書いておいてくれなかった教科書会社も怠慢だと思う。では今やればいいのだ、よい機会だ、と思って台所を覗いてみたら、なんと、私の家にはそもそも砂糖がなかった。なんだこの家は。ノーモアオリゴ糖。
風の噂で聞いたところによると、砂糖の溶解度は確かに二百あるのだが、実際にはなかなか溶かすのは難しく、延々かき混ぜないと飽和状態に持ってゆくことができないのだそうである。砂糖水を煮詰めるとできるのは水あめだが、最終的にああいう形になってしまうのであれば、確かにかき混ぜにくく、溶かしにくいだろうと思う。
どうすれば物を効率良く溶かせるかという問題は、飽和とは一応別の話になる。こちらは小学生で実験があったと思う。角砂糖を水に入れてじっと待つよりは、粒を小さくして、お湯にして、かき混ぜると早く溶ける。このうち、特に粒を小さくする(角砂糖ではなく粉の砂糖を使う)というのは、砂糖の表面積、水と触れている境界をなるべく増やしてやろうという発想になる。男女の仲だって、出会いがなければ始まらない。砂糖が水に溶ける現象は水と砂糖の境界で起こっているので、その機会を増せば溶けやすくなる、という説明は感覚としてよく理解できる。
ところで、飴をなめていると、途中で噛んでしまう人はいるだろうか。私はそうなのだが、途中でつい、ガリと飴をかみ砕いてしまい、ぼりぼりと食べてしまう。のど飴など、口の中で溶かすのが肝心なのに、つい噛んでしまって後悔する。一度など、車酔い止めの薬の糖衣をガリと噛んでしまい、中の錠剤の苦シブスッパさに泣きだしそうになった。酔い止めには、口の中で溶かすタイプのものもあるので、勘違いしたのである。しかもバスにも酔った。
話がそれたが、この「飴を途中で噛んでしまう」という癖が、はたから見ていてたいへんに気になるものであるらしく、しょっちゅう妻から「また噛んでる」と怒られる。私も噛みたくて噛んでいるわけではなく気が付くとどういうわけか噛み砕いているのでありあまり怒られても困るのだが、つくづくと自分で分析してみて、これはもしや飴の表面積に関係があるのではないか、と思った。
飴をなめていると、最初はなにしろ飴が大きいので、表面積もそれなりに多い。飴の表面から口の中に溶けだす糖分は多く、甘い味が口の中に広がる。ところが、だんだん飴が小さくなってくると、表面積が小さくなって、あまり溶けなくなる。口の中で飴の味が弱くなってくる。これを解決するには、飴の表面積を増やすしかない。
つまり、飴を噛んで粉々にしてしまうと、表面積が一気に増えるので、飴が溶けやすくなり、味がまた復活するのだ。飴を噛むのは「もっと甘くなりたい」という自然な欲求に突き動かされた行動なのである。科学的な理にかなった動作なのだ。ああ、素晴らしきかな科学。
石鹸を使っていると、小さくなるに連れてあまり泡立たなくなってくる。これは石鹸が古くなってくるという理由のほか、飴と同様、表面積の減少による溶けやすさの変化が大きな役割を果たしているはずだ。ということはつまり、古くなった石鹸は砕いてミカンの入っていた袋なんかに入れて使えば、泡立ちが復活するのではないだろうか。早速実験だ。
と思って風呂場を覗いてみたら私の家にはそもそも石鹸がなかった。なんだこの家は。ノーモア液体石鹸。