昆虫の「セミ」は、幼虫として数年間を暗い土中で暮らした末に、成虫となって一週間ほどの夏を飛び回る、そんなライフサイクルを取るものが多い。おそらくセミたちにとって、幼虫こそが自分の生活そのものであって、地上への進出と脱皮、繁殖の夏などは一瞬の夢のようなものでないかと想像してしまうのだが、暗い土の中でひたすらに時を待つ生活と異なり、空中に飛び出したその一刹那、はるかに変化に富んだ一週間の充実度はそれまでの永年に匹敵するものでも、もしかしたらあるかもしれない。
昔、疑問に思ったことがあるのだが、こういうふうに(たとえば)七年幼虫、一週間成虫という暮らしを続けていると、今年鳴いているセミは去年鳴いていたセミとは親子の関係にはないことになる。七年前に成虫になり、タマゴを産んだセミの子供であるはずで、ある年、異常気象でセミが全滅、という事態になった場合、それから七年ごとにセミのいない夏が来ることになることになる。しかし、よく考えれば、セミは種類によりさまざまな年数の周期を持つから「セミのいない夏」ということにはならないし、同種類のセミでも六年で成虫になったり八年目まで幼虫のまま暮らすものもたまにはいるに違いないから(そうでないと毎年のセミの間で遺伝子が混ざらない)ほどなく是正されてしまう類の障害ではある。
ある遺伝学の本で読んで知ったところによれば、セミの幼虫期間は素数の年数になることが多いらしい。これは、たとえばライフサイクルが六年周期だと、他の種類の、二年に一回や三年に一回子供を産む生き物に食い物にされてしまうからだそうで、七年なら、これらの生き物の間合いをうまく外して繁栄することができる。たとえば、ある年に成虫になったセミが、他の生き物に食べられる危険があるとする。この捕食者の子供が大きくなるころにセミの子供が成虫になるようだと、またも好餌とばかり食べられてしまうことになって、この周期のセミはどんどん数を減らしてしまう。幼虫期を六年ではなく七年にしておけば、三年の周期を持つ捕食者に対して、その孫達を避けて繁殖の年を持つことができるわけである。
ただ、これは確かにその通りなのだが、素数でなくても、たとえば六年のセミと三年に一回の生物の場合でも、敵の(孫ではなく)子は飢えに苦しんでいるのであって、それでいいような気もしないではない。だからまあ、セミの長い周期そのものが進化上の有効な戦略ではあるのだろう。
さらなる進化上の戦略として、セミが長い周期、たとえば十七年の幼虫期を持つ場合、毎年平均的に世代交代が行われるのではなくて、ある年に大量発生してあと十七年はボチボチ、と突出した年を持つようになる。これは、一つには上のような捕食者との関係があるのだろうし(毎年同じだけ羽化していると、誰かを飢えさせることにならない)、もう一つには仲間が多い年に羽化したほうが伴侶を探す上でも何かと有利であるからだろう。もともとセミ成虫の食物である樹液は、あれはもうナンボでも存在しているものだから、仲間と競い合ってセミ自身が飢えに苦しむという危険は、あまり考えなくて済むのかもしれない。
さて、以下余談であるが、去年から今年にかけて、ソフトドリンクメーカー各社からお茶が、異様なほど多種類発売された。のほほん茶とかしみじみ緑茶とか聞茶とか熟茶とか旨茶とかまろ茶とか葉の茶(これは出遅れた)とか麦水(これはにがくておいしい)とかで、もっとあるが今思い出せない。誰が考えても「お茶」という狭い生態系に多量投入しすぎであって、これから目を覆うような恐ろしい生存競争が繰り広げられてゆくのだろうが、これだけ多種多様なお茶が投入されると、むしろ市場を圧倒してしまい、他のソフトドリンクに対して「お茶」が勝つという方向に向かう気もする。お茶全体の売り上げが伸びたということがあるのではないか。
そんな中、近所の百円ショップにて「二十一茶」というものを発見したので、勇躍買ってきた。百円ショップで三本百円であるからして、最近のお茶ブームに乗っかったものなのかどうかわからないのだが、なにしろ二十一である。この向上心のないネーミングはどうだろうか。いや、十六よりも増えているのだから向上心はあるのかもしれないが、それにしてもの二十一茶なのであった。セミと同様、長い開発期間とあっというまの販売期間、という道を辿りそうな今年のお茶たちに比べて、これは開発期間もかかっていない(ような気がする)ので、なにしろ失うものが少ない。
メーカーはサンガリア。「一休茶屋」というブランドが与えられていて、それを言うなら「利休」ではないだろうか一休さんはお茶なんかやってたっけ、とかすかな不安をじっくり考える間もなく「おいしい二十一茶」というロゴが踊っている。ロゴの左右には使用した材料が小さな絵とともに(アイコン風に)書き並べてあって、これもなんだか向上心のないことおびただしいのだが、ともかくも二十と一つ、ちゃんとあるのであった。書き写してみよう。
ハトムギ、玄米、ハブ茶、緑茶、ウーロン茶、新芽杜仲茶、グァバ葉、バナバ葉、霊芝、朝鮮人参、ドクダミ、シイタケ、柿の葉、ミカンの皮、クコの葉、よもぎ、熊笹、アマチャヅル、大豆、昆布。
ちょっと待て「ミカンの皮」って何だサンガリア。それはゴミじゃないかゴミ。いや、お茶というものが非常に幅の広い原料を許容するものであるということは知っている。ドクダミだって熊笹だってそういえば雑草のようなものであり、何だってお湯で煮て上澄みをとれば「お茶」と呼称できる世界なのだ。だからミカンの皮の部分でお茶を作ってもそんなに変ではないと言えば言えるのかもしれないのだが、やっぱり、オレンジジュースを作ったあとの、捨てるところを再利用されていると思えてならない。とにかく、多かろう悪かろう、二十一の中にはそういうものも含まれているのである。味はまったく普通のブレンド茶であったので、何の問題もないといえばそうなのだが。
その点、本家本元の十六茶、お茶の名前に数字を採用したパイオニアは違う。「本生」が私に大人気を博しているアサヒがかつて発売し、好評だった十六茶。本年のお茶進化爆発のためにすっかり陰に追いやられた感があり、比較のために買ってこようと思っても、そこらのコンビニでは売っていないのだが、ウェブで検索をかけてみたら、ありがたや、原料を書き写してくれているページがあった。それによれば、原料の十六種類はこうである。
ハトムギ、緑茶、大麦、玄米、大豆、ハブ茶、ウーロン茶、昆布、よもぎ、霊芝、クコ、熊笹、柿の葉、シイタケ、アマチャヅル、ミカンの皮。
入っているではないか。ミカンの皮。