「これに乗るんか」
と私は訊いた。うなずく妻。私の前には、昔「まんが日本ムカシ話」か何かで見た、地獄そのもの風景があった。針の山なのであった。
「悪いところが痛くなるんだって」
わけ知り顔でそう言う妻に嫌な顔をして見せて、私は裸足をそっとその針山に重ねてみる。既になんとなく痛い。これに体重をかけたらどうなってしまうのだろう。私は身震いした。
つまりこれは「ツボ押し器」なのだった。木でできた体重計のようにも見える三十センチ四方ほどの板に、先を丸くした木の釘がたくさん打ち込まれている。ここに乗るのだ、と描かれた足の裏の絵は、毒々しい色で塗り分けられ「大腸」「膀胱」「十二指腸」などと内臓の名前が書き込んである。この板の上に立つと、無数の木釘が足の裏の急所を刺激する。それぞれの場所は長年の地道な研究の結果知られている「経絡秘孔」と呼ばれる部位であり、そこに集中して破壊のエネルギーを注ぎ込むことにより患者の体を内部から爆破する一子相伝の暗殺拳なのだった。
「む、むわ、たたた」
痛い。とても痛い。これで本当に健康になるのだろうか。
昔あった「健康サンダル」という、履くと足の裏に突起が当たるスリッパも痛かったが、今回はそれ以上である。木の釘はあのぶつぶつより太めなのだが、数のほうがあれに比べてまばらで、体重をかけると一つ一つの釘が足裏を思いきり押す。私の体重が標準よりかなり重いということもあるのだろうが、とても立ってはいらない。私は一秒ほどで、と、と板から飛び降りた。
「はい、どこが痛かったですか」
「全部痛くてわからんわいっ」
私はその場にへたと座り込んだ。これはもしかして、足の皮のよほど厚いお年より向きではないか。
「ここんところは、どうよ」
と、座り込んだ私の足を捕まえて、ぐいぐい押し始めた妻に、いたいいたいどこもかしこも痛いと泣き言を言いながら、私はこのツボ押し器をよく見てみた。土踏まずのちょっと前の方が肝臓で、足の小指側のドテのかかとに近いほうが大腸になって、かかとに肛門とか直腸とか性器などが配されている。それぞれの臓器が悪い人はそこを押せばいい、という治療効果のほか、足の裏の痛くなったところは悪くなっている、という診断も可能であるらしい。
「あ、あかんあかんて、そこが痛い。とくに痛いねんて」
「ここね。ははあん」
なるほど、大腸の位置である。
しかし思うのだが。いや、痛かったので言うのではないのだが、この足の裏が、だいたい実際の臓器の配置を写し取ったものになっているのが、いかにもうさん臭いのであった。仮に、もしかして、百に一つの可能性として、臓器の健康と足の裏の痛みに何らかの関係があったとしても、こういうふうに内臓の配置がこんがらがりもせずに足の裏に映えているということがあっていいものだろうか。たとえば、遺伝子を高倍率の顕微鏡で見たとして「ここが頭を作るところ」「ここが手を作るところ」と対応が付けられるわけではなくて、ましてやそれが人体の形に並んでいるわけではまったくない。あっちの遺伝子がちょっと、こっちの遺伝子が少しとばらばらに協力しあって体を作っているのである。足の裏に限ってそんな単純明快な関係が生じているとは、ちょっと思えないではないか。
「あ、今んところが、結構気持ち良かった」
「ここかいここかいここなのかい」
「あ、せやせやせや。くう」
足の裏をマッサージすることが、何らかの治療効果や診断効果を発揮すると考えても、これはありえない話ではないと思う。ここに与えられた刺激が、おそらく脳を経由する形で内臓の働きを活性化しても不思議ではない。ただ、こんなに細かい対応や、ちゃんとした医学的な診断のかわりになると主張するのは明らかに言いすぎだろう。たとえば「肝臓が弱ったら足の裏に出る」「肝臓の疲れに効く」のどちらかなら言っても構わない(真実かどうかは別にして)。しかし、その両方を主張したり、他の全ての内臓にも効くとするのは明らかにやりすぎだ。それはまず、肝臓への効果を実証してから出直して欲しいと思う。
もう一つ言わせてもらえば、体の他のところのツボを全部ないがしろにして足の裏だけに全てが集中していることだって、うさん臭いのだ。「この臓器のためのツボは足の裏にはない」という限界がどこかにあってもいい。そういう意識こそが、まっとうなバランス感覚というものである。
想像なのだが、この足のツボ図というもの、誰かが「こうであったらいいのになあ」「こういう仮説を立ててみよう」と描いた図を、誰かが間違って「なるほど体はこうなっているのだ」と信じこんで広めてしまったとか、そういう事情ではないだろうか。どうも、さきに書いたバランスに欠ける主張であることからしても、ある「天才」によって一代で築き上げられた体系だという気がしてならない。有史以来、いかにたくさんの人が「自分は全てを悟った」と勘違いして声高にそれを主張してきたことか。悲しいかな、それらはたいていは本人の思い込み以上のナニモノでもなかったのだが。
「さあ、もう一回乗ってみよう」
「え、なんやて。いや、なんですと」
妻が再びツボ押し器を差しだす。私は逃げ場を探すが、居間にどっかと腰を据えたツボ押し器は、私の生き血をすすろうと待ちかまえているのだった。わかったよ、もうちょっとだけな。
「む、うひ、いたたたた」
やっぱり痛い。すごく痛い。本当に、真実への道は限りなく遠くて、ちょっとやそっとでたどり着けると考えるのは傲慢なのだって痛いもうダメ助けて。