ティーカップの中の哲学

 かたじけなくももったいなくも「科学」を名に冠するサイトを運営する者として、自分ではまったく信じていなくて、むしろそういう考え方を嫌ってさえいるはずなのに、気が付くとつい口に出してしまうという、そういうことがある。つまり「私が野球を見るとチームが負ける」というジンクスである。本当に、見始めた途端にガンガン打たれるのだこん畜生。

 もちろん、リモコンから震える手を引きはがし、一息ついて考えてみれば、そんなはずはない。私がテレビで観戦するかどうかというちっぽけな出来事が、日本を代表する(してないしてない)野球チームの浮沈にどうして影響を与えるはずがあろう。
 それなのに、どうしてそんなことを一瞬といえども信じてしまうのかというと、たとえば、どこか遠くで行われている野球に比べて、自分自身の行動はなにしろ自分なので、すぐ近くの出来事である。ここに心理的な「遠近感」のようなものが働くからではないか。つまり、自分にとって「テレビを見る」という行動と「好投を続けていたピッチャーがなぜか崩れる」という現象が同じような大きさに見えてしまうのだ。同じような大きさの出来事なので、この因果関係が(他人にとって変でも)自分自身に対しては十分な説得力を持つわけだ。

 Aが起こった後すぐBが起きたからといって、AがBの原因だとは限らない、と、このことは当たり前でも、ABが引き続いて起こるところを何度も体験したり、あるいは、AとBがわりあいまれにしか起こらないと、一応、関係を疑うことには意味があるはずである。私のジンクスの場合「ひいきチームのピッチャーが打たれる」ということが、実は私が思うよりよくよく多くて、そりゃもうネンガラネンジュウ起こっていることであって、それで私が見るといつも打たれている、ということなので、迷信に過ぎないわけだ。
 ここでもし、AもBも本当にまれにしか起こらないことなら、かなりとっぴな説でもムゲには捨てられない、と一応は言える。もちろん、冷静な観察なり、できれば実験なりで検証しなければ、正しいなどと主張することはできなくて、そこが科学が科学である理由なのだが。

 今の我々のような生命が、どうしてこの惑星に生じたかという研究は、「我々はどこからきて、どこへゆくのか」という問いの片方に答える重要な一分野なのだが、そういう意味で見るからに難しい研究でもある。どうして、太陽系のほかの惑星ではなく、この地球にだけ生命がいるのか。この宇宙に、ほかの生命はいるのか。

 たとえば、太陽系に九つある惑星のうち、地球がもっとも巨大な月を持っている。惑星とその衛星の質量比を取ってみると、比率が地球ほど接近している惑星系はほかにない(※)。太陽が月に隠れる「日食」が起こるのも、地球だけである。地球の特徴は、だいたい「太陽からの距離がちょうどよい」「地軸の傾きや自転速度がちょうどよい」という中庸をもってなるのだが、この月の存在は飛び抜けた特質だ。しかし、だからといって生命の存在に月がなんらかの役割を果たしているなどということが、あるだろうか。

 あるかもしれない。月の存在が地球に及ぼす最も大きな影響は、潮の満ち干である。満ち引きには太陽も影響を及ぼしているのだが、月の影響のほうがずっと大きい。月が存在しない、存在しても小さい惑星には、干満はずっとゆるやかなわけである。
 昔、海の中には生命があふれ、しかしまだ陸上には進出していなかったころ、この潮の満ち引きが、ゆりかごの海を出たがらない生命の後押しをしたことは、ほぼ間違いない。海岸線に住んでいる生き物にとって、うっかり陸上に投げ出されてしまう何時間かを生きのびられることが、大きな利点になるからだ。原始的な両生類がこの満ち引きで鍛えられ、空気中で生きていられる時間がだんだん長くなって、最後には陸上で生きられるようになっていったというシナリオは、非常にありそうな話である。つまり、月のない惑星では、海中に生命が存在しても、陸上には進出できないかもしれない。

 と、以上のような説はもう、非常にもっともらしいので、書いていて思わず自分でも信じてしまいそうになったのだが、正しいのかどうなのか確かめようがない。他の惑星ではまだ生命が発見されていないし、まさか魚をもう一度進化させることもできないのだ。

 もしも将来、他の星系に探査の手が伸びて「巨大な月を持った惑星」「陸上に進出した生命を有する惑星」がともにほとんどない、ということになれば、上に書いた「AとBがわりあいまれにしか起こらない」の意味で、月が生命の陸上進出になんらかの役割を果たしている、と考えることができるかもしれない。しかし、今のところ、前者は九分の二(下の註参照)、後者は九分の一の確率なので、地球に「月が大きい」以外にもさまざまな特徴があることを考えると、決して小さい確率ではない。ちょっとこれで証明されたようなことを言うのは、厳しい。

 進化に関する生物学の他にも、たとえば地震学や天文学、心理学や経済学、教育学のような社会科学はほとんどこんな調子ではないだろうか。つまり、こういう分野では、起こったものごとに因果関係を推定して、確からしい仮説を作り上げても、実験が容易には行えないのでなかなか証明も反証もできない。たいていは因果の連鎖一つひとつはちゃんと証明可能であったりするわけだが、ときには単なるジンクスか、(反証ではなく)評論の対象である「文学」に近い状態にまでなってしまう場合もあるのではないかと思う。

 プロ野球中継や野球情報番組を見ていると「某が打つと試合に勝つ」とか「札幌では勝てない」とか「優勝の年にはこの応援歌を流している」とか、おそらくほとんど故意だと思うが、因果関係もなにもありそうにないジンクスや縁起がさかんに並べ立てられていて、あまり科学的なことではない。しかし、こういうジンクスはすべて、「その某が今日は決勝ホームランを打った」「札幌で一二連敗のあと二連勝」「今年はどうも優勝は無理だった」という反証によって近い将来ひっくり返りうるものである。
 思うのだが、もしかして、こういうジンクスのほうが「陸上動物には月が必要」という、いまのところ検証しようがない科学的命題よりも、ずっと科学的だと言えるのかもしれない。なんらかの手段で仮説を検証しうる、「反証可能性」こそが、科学を宗教と峻別するもっとも重要な性質だからである。


※ ただし、冥王星の衛星カロンだけは例外で、これは地球にとっての月よりも大きい。
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