誰かが言った。「人生で起こることは全てカレー皿の上でも起こる」。
もちろんこれは真実とは言いがたい。カレー皿の上では、カレーライスが盛られて食べられる以外あまり大したことは起こらないからだ。普通の皿と違い、カレー皿の人生はしごく単調だ。しかしそれでも、カレー皿にはとにかく人生がある。いや、あるような気がなんとなくする。してはいけませんか。なんだか怪しくなってきたが、事実、あのころの私は、カレー皿をどうしても欲しいと思っていた。
その少年の名前は「勝馬」と言った。カチウマではなく、カツマと読む。妹の子供だ。ここには書けない経緯事情紆余曲折があって、私がひと月ほど勝馬を預かることになって、最も悩んだのが彼自身ではなかったろうか。九歳というのはこれで複雑な年ごろであり、あまり親しくもなかった伯母のもとで(なにしろ私が彼の父を避けていたもので)ひと夏を過ごすとなれば、愛想良くしろというほうが難しいというものだ。ここ数ヶ月の急展開、今自分の身のまわりで起きつつあることは、なんであれ愉快なことではない、とも悟っていたろうから。
幸い、私が家で書き物をする仕事なので、彼を暗い部屋に一人残して、ということにはならなかったのだが、では伯母と四六時中一緒にいるという環境が彼にとって楽しいものであったかどうかはわからない。とにかく勝馬は寡黙だった。いや、しゃべらないのではないのだが、どうにも情報が断片的で、何というべきか、あまり文章になっていないのだ。
「ごはん」
「え、なに」
勝馬は辛抱強く繰り返す。
「ごはん」
「ごはんね。ちょっと待って、これを片づけたら作るから」
デスクから目を上げて、振り向くと勝馬がいない。腹を立てているのかと思って、探しに行ったらなんのことはない、おとなしくテレビを見て待っているのだった。幕を開けた私と勝馬の生活は、まあ、そんな調子だった。
そう、持って生まれたものか、環境がそうさせたのか、勝馬は特に利口というのではないにしろ、粘り強く、手ごわい少年だった。夏休みの宿題を見てやったときのことを書けばいいかもしれない。彼は、その日に決めた分量を決して変えない。時間がかかろうがどうしようが、蝸牛のように頑固に、かっちりと一日分を片づける。やり方のほうも確固たる意志をもって遂行してるようで、かけ算やら割り算で私が計算の便法を教えてやっても、教えたときにはやってみるのだが、結局、元の手間ばかりかかる方法に戻ってやりなおしているようだった。
彼を見ていると、いけないと思いつつも時々思うことがある。幼児虐待などで亡くなってゆく子供たちの親は、自ら自分の子を殺すことで、自分の遺伝子を未来に伝える可能性を失っているのだが、これも一つの「適者生存」、自然の仕組みではないか、と。しかし、してみると私は何をしているのだろう。勝馬、私の甥と私との遺伝的な共通点は八分の一、無視はできないが、さほど大きいものではない。
結局、人間とは遺伝子以上の何者かだということは言える。人間には技術があり、思想があり、それを伝えてゆく言葉がある。赤の他人の子供でも、自分の意見を伝えることができればその人間は自分と同じ何かを担ってゆく存在となる。そして、この血と肉の詰まった袋ではなく、その「何か」こそが人間としての自分だ。遺伝子が誰のものであろうと、そんなものはささいな違いでしかない。
私は職業上、さまざまな、本当にさまざまなことについて書いてきた。しかし、それで自分の中の「何か」を他人に伝えられたとは、どうにも言えない。むしろクライアントの中にある「何か」を人々に伝え広める手助けをしていただけだ。そう考えると、ちょうど勝馬を、他人の遺伝子の担い手を育てている今の境遇と、妙に重なることに気が付いて、しかしすぐ、自分がなんとおこがましいことを考えているのか、と赤くなる。夏休みが終わればこの家を出ることになる勝馬を、育てているとはよく言ったものだ。
とにかくそういうわけで、私は生きてゆくために自分の思想とは違ったものを書いてゆかねばならない。勝馬は、仕事中、私の本棚から本をあさり、読んでいるようである。小学三年生が大人の本棚からどんな本を読むのか、とあなたはいぶかるかもしれないが、なんのことはない、私の本棚は半分以上漫画の単行本で占められているのである。考えてみると、格好いいことではないが、趣味だからして、しようがないのである。
さて、カレー皿だ。ここでいうカレー皿とは、楕円形をしていて底が深く、その曲面がゆるやかなカーブを開いて水平な縁に繋がる、あの皿である。主用途はカレーライスを盛ることで、その他に機能はない。ハヤシライスは平皿に盛りたいところだし、シチューは丸くて底が深い皿を使う。徹頭徹尾、伝統のカレーライス専用なのだ。小さいころは私もその皿でカレーを食べていたものだが、今はさすがに私も持っていなかった。
勝馬がこれを欲しがったのである。そもそも、彼が何かを欲しがるということ自体、かなり異常なことだった。私に遠慮をしているわけではないと思うのだが、ハイとイイエの質問以外には常に沈黙で答える少年から希望を聞きだすのは、実に難しいのだ。
「え、何て言ったの」
「んん」
「サラダがどうとか、今言ってたろ。どうしたのさ」
「ううん」
「このカレーが不満なの。おいしくなかったか」
「ううん。皿」
「え、皿」
「うん」
それから要領を得ない会話をずっと続けてわかったことには、皿が気に入らないらしいのだった。確かに、そのカレーは単なる平皿に、ご飯と一緒に盛ったものだった。勝馬がこれまで、妹の家で食べていたものとは違うのかもしれない。彼の機嫌を取るのではないのだが、言われてみれば何か足りないような気は私もしていた。そうか、カレー皿か。
こうして、私と勝馬のカレー皿を探す旅が始まったのだった。もちろん、最初から「旅」になるとは思っていなかった。何だカレー皿みたいなもの、どこにでも売っているではないか、とあなたは思うだろうし、私もそう思ったのだが、探してみると話はそう簡単ではない。まず、近所のスーパー、デパート、家具屋(インテリアの一環として食器が置いてある)にはそれらしいものは無かった。こういうものは百円ショップだそうだ私には百円ショップがある、と出かけてみたりもしたが、似たような大きさの食器はたくさん置いてあるものの、あの「カレー皿」はない。
私は、一段落する仕事を縫うように、勝馬を古ぼけたニッサン車に乗せて、あちらへこちらへとカレー皿探しを続けた。本当にどこにも無いのだった。思い余って暑い太陽の下、足を伸ばして隣の県の、古くからの焼き物を売りにしている村まで出かけてみたりもしたのだが(これがもう、「旅」だった)、そこの「共同販売所」なる市場の、山と積まれた陶器群の中にも、ついに発見できなかった。普通のお土産屋さんみたいなところが、十軒ものきを連ねてひたすら焼き物だけを売っているというのに、カレー皿はない。確かに、そんなものを探している人はあまりいないとは思うのだが、「サンマを丸ごと置く以外使い道が思い付かない」などというような、かなりとっぴな器も置いてはあるわけで、カレーだけに加護がないというのはどうも解せない。庭に置くカエルの焼き物、なんてのはあるくせに。
私たちが、ついにカレー皿を見つけたのは、探しはじめて二週間目という、やはり暑い、晴れた日のことだった。灯台もと暗し。近所の商店街の瀬戸物屋、棚から梁から皿やらコーヒーカップやら湯飲みやら茶わんやら急須やらが置かれたり吊られたりしていて、地震が来たら万事キュウス、という店だったのだが、もしかして問屋に注文でもできないかとその店のオヤジに聞いてみたら、奥から二枚だけ、あのカレー皿が出てきたのだった。そもそもこういう皿は業務用でしか使われておらず、そのルートも最近は皿を使うのが一般的で売れ行きがハカバカしくなくて、自然と生産量も下がってしまったのだそうだ。積もった埃が物語る、確かに年代物だ。
しかしまあ、この場合相手は焼物であり、焼物というのは十年前のものだろうが八百年前のものだろうが、割れていなければ実用に耐えるものなのだ。むしろ価値が出るくらいだ。私はその皿を二枚千円で買うと、勝馬に絶対に割るな、といいつけて皿入りの袋を持たせた。勝馬は私を見て、うなずいて、ビニール袋の取手のところを二重に自分の手に巻き付けた。
買ってきたカレー皿は、何の変哲もなく、変哲がないだけにそれは見事なもので、やはり、探しただけのことはあったかもしれない。奇麗に洗われたカレー皿は白さと、青い装飾色、金のふちどりの輝きを簡単に取り戻し、さっそく作ったカレーがそこに盛られた。私の作ったカレーでも実においしそうに見えた。私は嬉しかった。久しぶりに、ちょっと幸福だった。
そして、もう一つ。その晩、私の作ったカレーを食べていた勝馬が、一口コップの水を飲み、ふいに目を上げると、私に言ったのだった。
「あんなぁ、前から思とったんやけどな、このカレー、ぜんぜん辛らないねん」
なんだか、虚を突かれた私が黙っていると、彼は続けた。
「ソースないのん。ソースかけたい」
それは、勝馬が私にしゃべった、初めてのちゃんとした文章だったかもしれない。私は、考えもまとまらないまま、ともかく、
「うん、それはね」
と相づちを打った。カレーにソースを入れることの是非をどう話してやろうか思案しながら、ともかく相づちを。カレーにはむしろ醤油だろう勝馬、なんてことを言ったり、笑いあったり。
そう、人生で起こることは全てカレー皿の上でも起こる。真実かもしれない。