うれしさの限界

 以前ここで、宝くじを買うことがいかに無駄かについて延々と書いたことがある。頑張って書いた割に何となく評判が悪かったような気がする回(※)なのだが、懲りずにまた書くのである。

 まず、こういうゲームの話を紹介しよう。縁日の夜店のような情景を想像してもらうとして、まず、参加者は胴元(テキヤのオヤジ)に参加費を払ってコインを受け取る。コインを放り投げて、裏が出たらそれまで、賞金百円をもらって終わる。表が出たら、もう一度コインを投げる。ここで裏が出たら賞金は倍の二百円でゲーム終了、表なら四百円を賭けた次のコイントスを行うことができる。この調子で、どこかで裏が出るまで倍々に賞金は増えてゆく。表表表表裏なら賞金は千六百円で、もし表表表表表表表表表表裏と出たとすれば十万二千四百円にものぼることになる。

 ぱっと見た目には「高額の賞金の出る確率は少ない」という、よくある感じのくじなのだが、このゲームにおいて、胴元がいくらの参加費用をもらえばよいかを考えると、話は少々おかしくなる。たとえば参加費二百円だとすれば、半分のプレイヤーは賞金百円なので胴元は百円の得、四分の一のプレイヤーは賞金二百円なので胴元は損得なし、残りの四分の一のプレイヤーは賞金四百円以上なので、胴元は三百円以上損をする、ということになるわけだが、このゲームを良心的に、胴元にもプレイヤーにも公平に設定することにすれば、いくらの参加費を徴収すればよいか。

 実は、このゲームの賞金額の期待値を計算すると「無限大」という、恐ろしいことになってしまう。期待値というのは、得られる賞金とその確率を掛けて足しあわせたもので、ゲーム一回あたりの賞金の平均額に相当する数値である(従って「公平な参加費」に等しい)。このゲームでは、百円をもらえる確率は二分の一、二百円をもらえる確率は四分の一、四百円をもらえる確率は八分の一、という調子で続いてゆくから、それぞれを計算して足しあわせればいいのだが、よく見るとどの項も五十円(百÷二、二百÷四、等々)である。ところがこの賞金額掛ける確率はルール上どこまでも続いてゆくのであって、五十円も積もれば無限大になってしまうのである。

 ということはつまり、胴元は参加費を、たとえば百万円に設定してもなお、長い間やっているとかならず損をするという、そういう計算になる。たいていの場合(千人につき九九九人まで)賞金額は五万円以下なのに、参加するために百万円もの料金を取られるのでは、まず誰もゲームに乗ってこない。それなのに、数字上は全財産をなげうってでもこのゲームには参加する価値があるということになってしまう。矛盾とまでは言わないが、数字と感覚が大きく乖離していることになる。

 以上のような疑問に「うれしさ指数」とでもいうべきものを導入して説明する方法がある(ダニエル・ベルヌーイという人の業績らしい)。うれしさ指数は金額の対数(ごく簡単に言って「桁数」のこと)を取ったもので「十万円は一万円の十倍嬉しいわけではない」という理論に基づいている。今一万円持っているとして、一万円増えると財産倍増だが、そこからもう一万円増えても倍増にはならない(五割増しだ)。最初の一万円ほど嬉しいわけではないのである。いや、そんなことない俺は同じように嬉しい、と思う人もいるかもしれないが、千六百五十八万円持っている時にあと一万円増えたらどうかといわれると、確かに最初の一万円の感動はもうない気がする。

 この「うれしさ指数」は、対数なので、賞金総額が増えるに従って、参加者にとっての価値の増え方がだんだん減ってくる。半分の確率で十倍の金額が手に入るとしても、嬉しさ指数(桁数)は1しか増えないのだ。これなら期待値は有限に収束して、ちゃんとそれらしい参加費用を算出することができる。適切なゲーム参加費用はプレイヤーの最初の総資金に依存して、ゲーム開始前の財産が千円なら、適当な料金は五百円をちょっと割るくらいになるそうだ。これなら、まあそんなものか、と思える。

 さて、そこで宝くじである。宝くじをギャンブルとして見た場合、なにしろ工夫の余地がほとんどないのでのめり込むようなものではない。なので普通、宝くじの購入費用は、全財産にくらべて圧倒的に低い。一方、いかに確率が低いとはいえ、手に入るのはほとんどの人にとって生涯賃金オーダーの巨額である。この事実を「うれしさ指数」を用いて再評価すれば、実は宝くじを買うことは理にかなっていることになるのではないだろうか。やってみよう。

 まず、現在の全財産を百万円とする。このうれしさ指数(百万の常用対数)は六である。話を単純化するため、ここから三千円分の宝くじを買って、三億円当選確率が百万分の一、という宝くじを考える(ほかはぜんぶはずれ)。当たったときの全財産は三億九九万七千円で、このうれしさ指数は約八・四八。外れたときにはうれしさ指数は五・九九八七くらいと、ちょっとだけ下がる。それぞれに確率、百万分の一と百万分の九九万九九九九をそれぞれ掛けて足しあわせると、合計は、ええと、五・九九八七。なんと、ほとんど「外れたときのうれしさ指数」と変わらない。三億円当たる可能性があることは「うれしさ」においてほとんど意味がないのだ。

 宝くじを買うという賭けが、うれしさ指数において元の財産を上回るには、百万本について五二〇本ほど当たり三億円当たりクジがなければならない。百万本の宝くじの売り上げは三十億円なので、これはちょっといくらなんでも無理な話である。もとの財産が多ければ宝くじによる出費が痛くも痒くもなくなるのでは、とも思ったが、ほとんど関係ないようだ。全財産五千円でクジを買うのは、全財産一億円のときに三千円クジを買うのに比べてものすごい愚行である、ということは言えるが、程度問題であり、どっちも損をする。

 他にも、三億円が一人にではなく、広く薄く、三万円が一万人にではどうかとか、現実の宝くじの配当体系でちゃんと計算してみれば実は非常に理にかなった配当になっているのではないかとか、いろいろやってみたのだが、どうも、収益金の一部を賞金にするという今の形態では、どうやっても「うれしさ指数」の期待値がもとの財産を上回ることはないようである。考えてみれば当然のことで、対数の性質上、ある額を支出するのと、同じ額をもらうのとでは、後者の嬉しさのほうが前者の痛みよりも小さく感じられてしまう。百円持っていて、五十円失うと半減だが、五十円もらっても倍増ではなく、一・五倍増でしかない。

 とはいえ、宝くじがいかにも損をするシステムなので買う人がいなくなるかというとそんなことはないので、一見もっともらしいこの「うれしさ指数」を用いた分析が、結局は万能ではない、ということなのだろう。一つ言えることは、「うれしさ指数」の増減にこだわると、一定額の投資を行った場合の収益について、最初の資金が少ないほど大きな収入が得られなければ割に合わないということである。つまり、千円持っていて、五百円を投資した場合、千五百円が得られる(つまり、うまくいった場合の合計財産が二千円になる)確率が五分五分でなければ「うれしさ指数」の期待値は最初の資金を上回れない。しかし、最初に持っていたお金が一万円なら、五百円の投資はわずかな損失なので、おなじうれしさの賞金は一〇二六円ほどで十分なのだ。

 よく、宝くじは庶民の夢、と言われる。別に揶揄するつもりはないのだが、少なくとも「出した金より著しく巨額の賞金」を求めるのは、最初の資金が少ない場合の特徴であるようだ。そういえば、金持ちは宝くじなど買っていないような気は確かにする。


※「ビバ・タカラクジ」のこと。
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