病院の思索

 お正月気分覚めやらぬ本年一月五日、ここで一言で書いてしまうにはもったいないある経緯でもって私は、近所の病院の待合室でしばしの時間を過ごすことになった。そこは、小さくはないが大きくもないそこそこの大きさの病院で、内科のほか歯科や眼科、整形外科まであるのがめずらしい。

 思ったのだが、こういう、科目というべきか、「外科」「胃腸科」「産婦人科」といった診療内容をどう組み合わせて一つの病院にするかという問題は、レストランでコックのレパートリーをどう組み合わせてメニューとするかという話に似ているかもしれない。外食産業の場合は「蕎麦屋さんのカレー」などという特殊な例外を除いて、無節操にいろいろな料理に手を出している所はいかにも信用できないものだ。「とんかつ・カレー・ラーメン『ドライブイン道草』」などという看板を見ると、どれもおいしくないんだろうなと思ってしまう。それなのに、病院の場合に限ってはどんな組み合わせでもそれほど不安にならないのはおかしなものである。この病院など、さしずめ料亭のメニューにサンドイッチやらカレーピラフやらにんにく玉子チャーシュー麺があるようなものではないかと思うのだが。

 そんなことは実にどうでもよいのであって、私は一通りの診察を終え、清算を待っているのであった。小中学校がまだ冬休み中だということが関係しているのかどうか、待合室はやや騒がしい。片手に持った岩波新書の難しいばかりで大して面白くない内容を必死で追っている私をよそに、隣のソファでは、小学校に入るかどうかという少女がだらしなく母親にもたれかかって携帯用ゲーム機で遊んでいる。裸足でソファに上がらないほうがいいと思うし、ボリュームを小さくしたほうがベターではないかとも愚考するが、私は気が弱いのでそんなことは言わない。その母親の、人間としての格というかなんというかそのつまり、質量が、ボクシングで言うと二階級くらい私より上に見えたからということもある。それにしても清算のキュー列は遅々として進まないのであった。

 そんなことを考えていると、本の内容がちっとも頭に入らない。病院の待合室は、読書や考え事に向いた場所だと思うのだが、そうでもないのかもしれない。上滑りする視線をなんとか活字にくくりつける努力を続けている私の背後のソファから、そしてここでこんな話が聞こえてきたので、私はもう、完全に本を手放してしまうことになった。
「…確率って、どれくらいと思う」
 後ろの席でお父さんが、暇を持て余して子供に何か語っているらしい。こんなところで「ゼロ」と「百」以外の確率の話が出るとは思っていなかった。私は本を閉じて、インフルエンザ予防注射の貼り紙を眺めるふりをしながら、多少の熱心さでもって、後ろに耳を向けた。
「どういうこと」
「つまり、クラスで、誕生日が同じ日の子がいる可能性は、どれくらいあるか、ってことさ」
 ははあ、そういう話か。

 直感的な確率と、実際の確率がひどく食い違う例として、この話はちょくちょく出てくる。いわく、ある集団がいたとして、その中に、お互いに誕生日が等しいペアが一つ以上いる確率は、どれくらいになるか。閏年を考えないとして、一年には三六五日あるから、たまたま同じ誕生日などという偶然はちょっとありそうにない。しかし、確か二〇人ほどのクラス編成なら、ほぼ五分五分の確率で、そういうペアがいることになるのだ。蛇足とは思うが、考え方を紹介しておくと、以下のようになる。もう知っている方は読み飛ばしてください。

(1)一人目はどの誕生日でもよい。
(2)二人目が、一人目と違う誕生日であるためには、二人目の誕生日は365日のうち1日以外のどこでもいい。そうなる確率は365通りの可能性の中で、364の選択肢が該当する。だから確率は364/365。
(3)三人目の誕生日が、一人目とも二人目とも違うためには、365日のうち二日分がもう取られているから残りの363日のうちどれかでなければならない。だから確率は363/365。
(4)四人目が、一人目とも二人目とも三人目とも誕生日が違う確率は、同様に362/365。
 ………
 今、n人全員の誕生日が異なるためには、ここまでのことが全部起こらなければならないから、その確率は、ここまでの確率を全部掛けたもの、つまり、365×364×363×…×(366-n)を365のn乗で割ったものになる。そして、クラスに誕生日が同じペアが少なくとも一組いる確率は、求めた「全部異なる確率」を1から引いた値である。

 最低限関数電卓が手元にないとこれは計算できないと思うが、この確率は、人数が23人になると早くも1/2を越える。一つのミソとして、ある一人の人ともう一人のある人が誕生日が同じ確率は確かに低いが、クラスの人数が増えると「この人とこの人」という組み合わせの数も急に増えるので、誕生日が一致しやすくなる、と考えると、直感的にも理解しやすい。

 背後の父は、子供にそこまでちゃんと説明するつもりはなかったらしかった。にじゅうさん人なんだよ、などと答から説明をはじめたのだが、子供は冷たいのだった。言下に、クラスどころか、学年に一人も自分と同じ誕生日の人はいない、などと言われてしまっている。
「いや、そうじゃなくて、クラスに」
 いかにも辛そうな、父である。

 そういえば、この問題が、誰とだれかが同じ誕生日、というのではなくて、まさに自分と誕生日が同じ人がいるか、とした場合、自分と同じ誕生日の子が一人以上いる確率が五分五分になる人数はどれくらいになるのだろう。やっぱり365人の半分の180人くらいだろうか。今ここから半径五キロ以内に、医院にわざわざ関数電卓を持ってゆくような人間がいるとすればそれは私なのだが、その時はさすがに持っていなかった。なので今計算してみるのだが、n人の人が全部自分と違う誕生日だという確率は、364/365の、全体のn乗である。これが1/2になるnはというと、ええと、253人。思ったよりも多い印象である。一学年253人という学校はまあまあ普通にあるだろうから、自分と同じ生まれ日の人間に出会う確率はそれくらい低いということである。

「ほら、自転車のダイヤル鍵があるだろ」
 私の背後に座っている父親は、すっかり興味をなくしたふうていの子供にまだ何か説明している。
「それがたまたま合うような確率なのさ」
 なにがだろうか。私が(364/365)のエヌ乗を暗算しようという無駄な努力をしている間に聞き飛ばしたのか、論理展開がよくわからない。そもそも、自転車の番号鍵がぴったり開くというのは、どちらかというと私がさっき書いた例、自分の誕生日とたまたま同じ誕生日の人、という話に近い気がする。と、私はふと考えた。あれ、そうすると自転車の鍵も、同じ計算になるのだろうか。n個の数字を試して、四桁の番号鍵が開く確率が五分五分になる回数nは、(9999/10000)のn乗が1/2になるnである。しかし一方で、〇〇〇一から五〇〇〇まで試して開くかどうかの確率は正確に1/2になるはずでもある。おかしくはないだろうか。いや、9999/10000のエヌ乗を暗算したりはできないのだが、エヌが五千のときに正確に0.5になったりしないことはなんとなくわかる。あれあれ、どこで間違えたのだろう。落ち着け私。

「大西さーん」
 そこで私の名前が呼ばれたので、後ろの席の親子や読みかけの本、ゲームボーイアドバンスの少女やまとまりかけた考えやその他もろもろ全てと、私はそこでお別れとなった。病院の待合室というところ、やっぱり思索には向いていない気がする。


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