ジョン平とぼくと

 夜、部屋で一人で勉強をしていて、ふと、机の横で、ぼくの方を真っ黒な瞳で見上げているジョン平に気がつくと、やりきれなくなることがある。

 ジョン平は、ぼくの使い魔で、犬である。毛の短いレトリバーに、何かの血が混ざった雑種らしい。そもそも使い魔としては、ふつう犬でなく猫や鳥類が使われるというのに、それだけならまだしも、なんだって彼に「じょんぺえ」などという変な名前がついているのか、ぼくにはわからない。確かお父さんがつけたものだと思うのだが、ジョン平がこの家にやってきたとき、ぼくはまだ小さくて、そのへんのいきさつを覚えていないのだ。友達の優くんが使い魔にしているダガーという名の白いカラスや、お隣の鈴音ちゃんの黒猫トルバディンに比べると、風情のないことおびただしい。

 劣等生であるぼくが言ってもしようがないことだが、魔法とは、一言で言って、大変に辛気臭いものだ。努力が必ず報われるとは限らなくて、こうすれば確実に上手になるという決まった練習法もない。がんばってしくみを完全に理解したのにうまく行かないこともあれば、ぜんぜん理解しなくても難しい術をぽろっと使えてしまうこともある。まったく道理が通らないのだが、これは魔法そのものが持っている基本的性格なのだ。格言にいわく、魔術とは「心のありよう」だという。ぼくはそのあたり、ちょっと考えすぎてしまうところがあって伸び悩んでいるのだと、魔法課の先生はおっしゃっている。

 しかし、使い魔ジョン平とぼくとの関係についてだけ言うなら、この魔法の不可解な性質にすべてをひっかぶせて、ぼくのせいじゃないんだ、才能なんだ、とだけ言って済ませるわけにはゆかない。使い魔の能力は、主人が使い魔にどれだけの時間を使えたか、どれだけの手間を注ぎ込めたかというところに、多くを負っているからだ。

 鈴音ちゃんならあいだを伸ばして「マーナ」と呼ぶところだが、マナ、魔法素は、誰もが持っている魔法の力で、すべての人間に多かれ少なかれ与えられているエネルギーである。太陽の光の中にごく微量ふくまれている魔法素は、まず植物や大気に捕まえられ、食事や呼吸を通じて体に吸収される。人間が、絵を描いたり、音楽を演奏したり、複雑な数学の問題を解いたりして精神活動を行うと、蓄えられた魔法素が脳を通じて「転化」して、現実の力に変えられる。魔法というのは、魔法素のつかいみちを自分の好きなときに好きなようにコントロールする力だと説明されている。たとえば「微炎」は、魔法素を指先で熱と光に転化する術だ。花火やガスレンジに点火するときなどに便利だが、転換効率が悪いので、ぼくなどこれを三分も続けることはできない。そんなことをすれば魔法素をすべて使い切ってしてしまって、その日はもう何もできなくなってしまう。

「しげ…る?」
 ぼくが勉強を中断して、考え事をしていることに気が付いたのだろうか。大きな口をもぐもぐと動かして、ジョン平がそうぼくの名を呼んだ。
「なんだい、ジョン平。ご飯か」
 ジョン平は、口の端をひゅっ、と持ち上げて、笑った顔を作る。
「うわん。おな…か、すいた」
「もうちょっと待ってくれよ、これ片づけたらあげるからな」
「ん」
 こりこりと頭をなでてやると、つまらなさそうにジョン平はその場に伏せて、ふ、と軽く息を吐く。

 他のすべての魔法と同じように、使い魔の「馴致」にも、この魔法素が大きな役割を果たしている。使い魔を側に座らせて、魔法を使う。何でもいいのだが、単純な術ひとつを何度も繰り返すのではなくて、高度な術をいろいろ使うほうがいい。もちろん、魔法を使っていない間もずっと連れ歩いて、買い物でもスポーツでも何でも一緒にやるようにする。そうすると、不思議ふしぎ、長年の間に使い魔の脳に主人のものと同じような魔法回路が開いて、だんだん動物であって動物でないものになってゆく。人間と同じように会話をし、高度な思考力を備え、絶対に主人をうらぎらない、そういうパートナーになってゆくのだ。

 このへんの、注ぎ込んだ手間と効果の間には、魔法にしてはかなりシビアな対応が成り立っていて、ほとんどごまかしの利かない基本的な関係になっている。つまり、ジョン平が他人の使い魔のように高度なものにならないのは、一にかかって、ぼくが魔法の練習をサボっていたからだ。いや、決してサボるつもりではなく、一生懸命やってはいるのだが、能力と真剣さが足りないのかもしれない。先生の使い魔ペンブロークのように炊事洗濯から部屋の掃除につくろいものビデオの予約設定までこなせるようになれとは言わないけれど、トルバディンのように電話番号を二百件ほど覚えていたり、ダガーのように空高くからの偵察情報を主人に見せてくれたり、それくらいのことをしてくれてもいいのに、と思う。

「ああ、もういいや。できないできない」
とぼくは鉛筆を置くと、立ち上がった。ぼくの独り言を聞きつけたジョン平が、ぱっと起き上がってその場に座る。
「ごわん?」
「そうだよジョン平。ご飯にしよう」
「うれい」
「うれしいかい」
「うれい」
 ジョン平は、そう大きくうなずいてぼくの目を見つめる。

 ドッグフードをジョン平の器に盛ってやりながら、ぼくはさっきから悩んでいる数学の問題のことについて、ゆっくりと考え直していた。数学は、すばらしい。必ず答えが一つに決まって、しかもその正しさを誰にも見える形で、常に証明することができる。確かに、長い道のりを一つのひらめきでぱっとショートカットできることもあれば、できないこともある。しかし、基本的には数学と人間との間にあるのはフェアな勝負で、魔法みたいになんでもありということはない。ぼくは、魔法はぱっとしなくても、数学だけはクラスいちの成績で、だからというわけではないのだけど、いつでも魔法よりも数学のほうがずっと好きだった。夜更かしをして、難しい問題を解くのが好きだった。こんなことをしているとぼくの中の魔法素がどんどん減っていって、魔法の練習に割く時間がなくなってゆく。しかし、せめてあと一問、やりかけた問題は解いて眠りたいと思った。ああ、そうだ、さっきの問題は、つまり補助線を。

「しげ…る?」
 問題を解きほぐす可能性を持った、新しい考えの小枝に夢中になっていて、器から顔を上げて、ジョン平がこちらを見ていることに気が付いたのは、ジョン平がそうぼくに話しかけてからだった。
「あ、ああ、なに」
 器にはまだドッグフードが残っている。
「もう、おなかいっぱいか」
 そう聞いたぼくに、ジョン平は、不思議そうに首をかしげて見せる。
「しげ…る、心配ごと」
「ないよ、ない。いいから食べな、ジョン平」
 長い鼻面を縦に降った彼は、すぐまた食事をはじめた。使い魔は、主人に忠実で、やさしい。

 えらそうに聞こえなければいいのだけど、ぼくは将来、数学者になりたいと思っている。どんな職業につくにしろ、魔法ぬきでやっていけるとは思っていないのだが、幸いにして、この魔法万能の世の中にも、数学者の出番はある。惑星の配置、天体の運行の予測は魔法よりも数学のほうがうまくできるし、それを言えば橋をかけるのだって、建物を建てるのだってそうだ。魔法で川を飛び越すような魔法素の無駄遣いができない多くの人のために、橋は必要なのだ。というより、ぼくはその道でしか、人生において何事かをなすことはできないだろう。どうしようもない魔法の才能の欠落に、ぼくはすっかりそう決心していた。

「ごちそさま」
 そう言って行儀よく腰掛けたジョン平が、こっちをみてまた首をかしげる。
「しげ…る?」
「あ、どういたしまして」
 ジョン平は、元気なさげなぼくの気持ちを感じ取ったのだろうか。右前足を空中で一回、漕ぐように動かすと、言った。
「しげ…る、勉強がんばれ」
「あ、うん、がんばるよ」
 ぼくは口の端を持ち上げたジョン平の笑い顔(だと本人、いや本犬は思っている)に、またも激しい後ろめたさを感じて、どうしようもなくなって、机に戻ろうとする足を動かせなかった。
「ど、したの」
 ぼくは、ひざまづいて、ジョン平の耳のうしろを掻いてやった。目を細めて、顔を上げるジョン平。
「ごめんな」
「ジョン、ペーは、平気」
「うん、ごめんな」
 どうしてぼくが謝っているか、ジョン平にはわからないだろう。でもぼくは、ジョン平の鼻面にほおを当てて、もう一度謝った。彼の冷たくぬれた鼻と、少しだけ開けた口からせわしなくこぼれる息の音を感じて、両手で背中をなでてやる。ごめんな。

 使い魔の寿命は、主人の魔法、いかに使い魔に時間を費やせたかで決まる。主人の魔力を十分に受けた使い魔は、種族本来の寿命を超えて、長く長く主人と共に生きることになる。脳に開く魔法回路に関係があるらしい。自分たち自身、異常に長生きな大魔法使いたちに比肩する寿命を持つ使い魔はさすがにいないが、ペンブロークがそうであるように四〇歳くらいの使い魔はわりあい普通に見かける。しかしその一方で、ジョン平程度の「馴致」しか与えられなかった使い魔は、もともとの寿命の二倍くらいしか長生きできないといわれている。ぼくがもっと力をそそぎ、毎日十時間も魔法の訓練に割けば別だが、現実のぼくはそうせずに、これまで暮らしてきてしまっていた。すでにジョン平は一〇歳、そろそろ老犬といってもいい年齢だ。

 そう、ぼくが数学者を目指すのは勝手だが、それにジョン平まで巻き込んでいいのか、そこにぼくはいつもやりきれなさを感じるのだった。一日は限られていて、魔法に使わない時間が長いほど、ジョン平の使い魔としての成長も後回しになる。現実として、まだ少しさきのことにはなるだろうが、ジョン平は他の使い魔たちほどは長生きできないだろう。それに対して、ぼくはほとんどどうすることもできない。魔法は魔法。しかし、その力は御しがたく、技は及ばず。ぼくは大魔法使いにはなれない。しかたがないじゃないか。

 ぼくは机に戻ると、やりかけの数学の問題に新しい行を付け加えた。今日はこの問題で精一杯だけど、明日は、そう明日こそは、ジョン平のためにも、もう少し魔法の練習に取り組んでみよう。「物質生成」の術なんかがいいかもしれない。今までできたためしはないのだけれど、明日こそはうまく「バナナの香り」を作れないとも限らないのだから。そういうふうに、果たされたことのあまりない約束を自分に誓ってジョン平を見ると、彼はまたも、なにもかも見透かすような、しかしやさしい黒い瞳でぼくのほうをじっと見上げているのだった。


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