過去の漫画作品を文庫本サイズで復刊する、という習慣が一般的になってもうだいぶ経つ。これがいつごろから始まったのか、どこの出版社が元祖で追随者がどこで、どんな経路をたどって今のような隆盛を迎えたのか、そういった書誌的な興味にこたえることは私にはできないのだが、とにかく昨今ではどこの本屋でも、どこか一列分の本棚を占めて漫画文庫が置かれるようになった。その分減った売り場面積はどこにしわ寄せられているかというと、この世に正義があれば新刊コミック単行本であるべきところ、現実はたぶん文庫本小説あたりではないかと思う。しかし現状を慨嘆する資格は私にはない。なにしろ、ここ数ヶ月というもの、ほとんど文庫で小説を買った覚えがないのだ。たぶん、正義はそのうち福島県の山中で遺体となって発見されるのではないかと思う。
いや、文庫本は(そして私は)これでいいのかという話ではなかった。そんなことを言いつつも、漫画文庫は素敵なのである。私にとっても文庫があればこそ読むことができた作品がずいぶんあって「ガラスの仮面」や「動物のお医者さん」「火の鳥」など、文庫化という機会がなければ一生読まなかったろうと思う。「北斗の拳」の最後がどうなったかとか「サバイバル」の前半の緊張感、「魁!男塾」の栄光と挫折も、漫画文庫のお陰でやっと知ることができた。サイズのせいで「所有する喜び」というものがあまり感じられない出版形態ではあるのだが、妻帯した世帯で例の価格帯のところを賃貸していると、所有欲云々はあまり追求してよい愉楽ではない。ここは我慢の文庫本なのである。
さて、そうやって買い揃えた漫画文庫の中に、手塚治虫の「ブラックジャック」がある。これについてはもう、私が何か書こうとしても立錐の余地も残っていない有名な作品だろうと思うのだが、正しく名作なのであった。基本的には一話完結で、漫画文庫で十五、六冊分の分量がある。「無人島にたったひとつだけ持ってゆく物」という質問の答えほどではないが、たとえば一ヶ月間、海外出張する人がいるとして、何か推薦する本はないかと聞かれたら、星新一か、でなかったらこの「ブラックジャック」がいいと思う。そういう作品である。
それにしても、読んでいてつくづく感心するのは、手塚治虫氏はこれを週刊ペースで連載していたのである。一つのおおまかなパターンがあって、とか、軸となるストーリーがあってそれを追いかけてゆく、というのではなく、一つひとつの話がアイデアに富んでいる別の話で、さまざまに質の異なる感動が用意されている。これがいかに大変なことか、一週間に一回できることかそうでないか、私のような人間にはおぼろげながら想像できるに過ぎないが、ほとんど奇跡に近い、と思う。
しかし、思うのだが、こうやって文庫本にまとまってみると、最初にどのような形態で発表された作品なのかというのは、ほとんど意味がない。確かに、雑誌連載中に展開を追いかけている読者にとっては、連載のペースというものは作品を楽しむ上で大きな要素になる。しかし、すべてが終わったあとに文庫本でまとめて読んでいる私のような「後世の読者」にとって、週刊の殺人的なスケジュールの中考え出され、作画され、読者のもとに届けられたものかどうか、実感としてよくわからない。ソースが月刊だろうと、あるいは一年に数回思い出したように掲載されたものだろうと、なにも変わらないのだ。
そこで考えてみる。私は、ここに「大西科学における最近の研究内容」なる題名でここまで何やらかやらと文章を書いてきた。通し番号で四百回分、始めたのが九八年の五月ごろだったので、均すと一年につきちょうど百回ずつ、まず三、四日に一回のペースで何かを書いてきたことになる。しかし、ありがたくもこれを読んでくださっている方々がみな立ち上げ当初から発表するずつ読んでいただいているとは限らない。というより、アクセスカウンターの増加率だけを見ても、そんなはずはないのであって、これを今お読みの方のほとんど全員が、多かれ少なかれ「まとめて読む」ということをされているはずなのである。
つまり、そういう事情であるなら、がんばって一週間に何回も更新するというのは、あまり意味のあることではないのでないか。週に一回、月に一度、あるいは一年にほんの数回でも構わない。一つの話を書くにおいて、練りに練って、持ちうる限りのさまざまな要素を入れ、自分にとって最高に面白い文章を残して行くこと、それこそが私のやるべきことではないだろうか。私自身、他人のページを見るときには「なるほど週に一度くらいの更新ペースだな」というふうにはあまり見ないのであって、そうすると時間はかけられるだけかけたほうが良いことになる。少なくとも、数年から十年のスパンで残しておく文章を書くつもりなら、数日数週を急いでも何にもならないのだ。手塚治虫ならぬ身の我々のこと、せめてテストを見直さずに提出するようなマネはしないほうがいい。
というわけで、ここでやめると新しい文章をここに発表するスピードがだんだん落ちてきたことへの言い訳めいて恐縮なのだが、ただ一つ、反対意見として言えることは、私はこれを仕事としているわけでは別にないので、間隔があけば面白いものが書けるかというと、そうでもないのである。普段から生活の一部として、時間を決めてやっていることではないから、書く気にならなければいつまでたっても一文字も書けない。そこが、職業としてのモノ書きの人々とはちょっと違うところだと思う(どっちが幸せかはわからないが)。
いや、むしろつらつらと昔の話を読んでいると、間隔をつめて更新しているときのほうが、ずっと生き生きとした、いい文章を書いているようにも思う。あくまで「自分で読んだ感じ」なので客観的な評価とは食い違うかもしれないが、少なくとも、更新ペースが速いときには、こんなの書いて大丈夫かな、という冒険ができるように思うのだ。つまり、読み返してみて恥ずかしいようなものを書いてしまっても、すぐ次の話を書くことができるからである。そういうことができた時期のことを、少し懐かしく感じる。いつかもう一度、あんな時期が来ないものかなあ、と思うのだが。