大きくて重たい玉っころを転がし、並べられたジュースの空き瓶みたいな物体をなぎ倒すスポーツは「ボウリング」という名前である。一方、土木工事などで、地面にぐりぐりと穴をあけるのも「ボーリング」という。この両者の発音は、微妙だがいちおう違う。LとRの違い以前に「オウ」か「オー」かという差異があるわけだが、この二重母音というやつは特に急いで発音したときなどなにやらわかりにくいことは確かで、バレエとバレー、カレイとカレーと同様混乱の元であるといえる。ただ、運動と運動、食べ物と食べ物というややこしい関係にはないだけ、ボウリングとボーリングはまだマシかもしれない。そういえば、英語で「退屈な」という意味の「boring」という単語があるが(※1)、これは穴をあけるほうと同じ発音になる(綴りも同じ)。ボウリングと退屈は日本人にはわかりにくい神妙な壁によって隔てられている。
そんなわかったふうなことを書くはずではなかった。ボウリングだ。以前一度「魔弾の射手」というタイトルで、突然ボウリングがうまくなった話を書いたことがあるが、思った通り連続ストライクの幸福は長く続かず、その後私のボウリングライフは長いトンネルの中にあった。
いや、ちょっと格好をつけすぎた。私がそんなに頻繁にボウリングばかり行っているはずはなく、それどころか実はまだあれから一回しかボウリングをしていない。これは主としてウチに赤ん坊、「理科」というネット名前を持ち生後三ヶ月であるところの彼女がいること、そして「『生まれたばかりの赤ん坊』と『ボウリング場』の間には高い親和性がない」というのが理由になるが、そのたった一回の機会で惨澹たる成績だったことからして、根源的な私の意欲という点でもいささか問題はなしとはしない。
赤ん坊と親和性が高い娯楽は何といってもインドアの王様「テレビ様」である。ほかに「ゲーム様」というのもあるが、うちのゲーム様は王位を追われたあと押し入れに蟄居を命じられているので、やはりテレビが娯楽の王様である。しかも、阪神タイガースが今年好調だった影響で、つい衛星放送受信セット(「スカパー殿下」)などというものを買ったので、ますます一家挙げてテレビっ子になってしまった。殿下は今日もごきげんうるわしくあらせられるのである。
さて、幸せをかみしめつつ、たくさんある衛星放送のチャンネルをあてもなく見ていて、ふと、ボウリングの番組が目に入った。そこはデジタル放送の恐ろしさ、数百もあるチャンネルの片隅で、密かにかつノホホンとこんな番組を放映しているのである。反射的にチンプな感想ながら「誰か一人でも見ている人はいるのか」という心配が先に立ってしまうのだが、考えてみればインターネットの片隅のこんなページでさえ見ている人がいるくらいで、それに比べれば相手は一応テレビで、かつボウリングという、地上波でもレギュラー番組があるメジャーなスポーツである(こんなスポーツは二十もない)。私に心配されるほど落ちぶれてはいない、と言われてしまうところかもしれない。
ボウリングのコツはとにかく「カーブする球を投げる」というところにあるらしい。ボール(※2)をまっすぐ転がしていると、どこをねらっても一本か二本、倒されずに残ってしまうピンが出る。少なくともその確率が高い。うまく全部のピンを倒すには、カーブして斜めからやってきたボールのほうがずっと有利なのである。このへんの事情を理屈として説明するのは難しいのだと思うが、なにしろ相手は毎日まいにち練習を繰り返し、いわば数限りない実験と検証を行った末にこういう結論を出したのだろうから、まず間違いなく真理なのだと思う。
そのためにはどうボールを持って、どう転がせばいいかという説明は、以前別の、地上波の番組で見たことがある。ボウリングの場合カーブボールは、ボールの進行方向とは異なる方向に回転を与えることでコースを制御する。ボウリングの球は重いので、運動量ベクトルと回転方向が違うと、はじめはボールは運動量の方向に滑って行く。この回転の摩擦力は、しかし進行する間に少しずつ、回転方向の運動エネルギーとして付与してゆき、ボールのコースを曲げるのである。
しかし、カーブの理屈は理屈、それでスコアが向上するのも理屈として、どうも私にはカーブボールに踏ん切れないところがある。「私のフォーム」というほど立派なものがあるわけではないが、これまでボールをできるだけまっすぐに、ボールが狙ったところにストレスなく転がって行くように投げようと今まで努力してきたので、いまさらカーブに慣れるのも大変だと思ってしまうのである。
そもそも、小学生の頃から教育され、慣れ親しんできた科学実験の基本的原理によれば、実験のとき「変数」の数をやたらに増やすのは、最も愚かしい者のすることである。化学実験のときはたとえば試験管を二つ用意し、問題の薬品を加えるか加えないかのほかは、まったく同じ条件で手順を繰り返さなければならない。力学台車は車輪に油をさしておかないといけないし、人間が引っ張るのではなく、錘に糸を付けて引っ張らせるほうがよい。これはすべて、実験条件の差が結果に与える影響を、できるかぎり小さくするためである。機械がうまく動かないときは、いっぺんに二つ以上の修正をしないほうがよい。うまく動いたとしても、何が悪かったかわからなくなるからである。
そういうことでいうと、ボウリングの球にカーブをつけるなどというのは、もってのほかなのである。すでにそれでなくとも、ボウリングの球を投げるときには「コース」と「速度」という、いかにも制御しにくい変数を二つ、このきしむ右腕でもってなんとかコントロールしなければならない。ここでボールをカーブさせ、かつ狙ったところに命中させるには、さらに「ボールの回転方向」「ボールの回転速度」という二つの変数を「1番ピンの右側に命中」という目標に向けて調整しなければならないのだ。上手ならば修正のしようがあるが、投げるのが下手で各変数が独立にぴょこぴょこ投げるたびに変わっていると、今のどこが悪かったのか良かったのか、なにが何だかわからなくなる。まっとうな科学マインドを持った人間であれば、カーブボールなどに手を出すはずがないのである。
というわけで、私のボウリングはこれから先も素人臭いストレートボールで、しかも練習不足で狙いもさほどに定まらない状態が続くわけなのだが、もしも私とあなたがボウリングをするとしたら、どうか許して欲しいと思う。私の魂は、すでにして、科学と理科に捧げられていて、もうあんまり残っていないからである。考えてもみよう、これにくらべれば、ボウリングのタマがうまく曲がって当たったとして、なにほどのことがあろうか。