四を開け

 その当時は大したこととは思わなかったのに、なんということもなく、たまたま覚えている記憶の切れ端、交わした二言みことの会話が、ずいぶん経ってからまったく別の意味をもって思い出されることがある。もうそのときには時間が経ちすぎていて、たいていの場合、本当のところがどうだったのか確かめることさえできなくなってしまっているのだが、だからといってどうなるものでもない。それだけのことなのだ。

 私がまだ小学生のときのこと。季節は二学期がはじまってすぐで、午後の日差しが明るい教室の一隅に、担任の先生が、壁に貼る、新しい時間割表を作っている。私は先生の手元を覗き込みながら、ふと話しかける。
「先生、気が付いたことがあるんですが」
「うん」
 マジックで模造紙に教科名を書き込んでいた先生は、目を上げた。
「なあに」
「先生の数字の書き方なんです。先生が、こういう時間割表や、掲示物を書かれる時に、数字の一をちょっと変わった風に書かれますね」
「そうかしら」
「ええ、何度か見たんですが、どれも『1』がアルファベットのアイになっているんです。ローマ数字の一ですね」
 要するに、縦棒の上下端に短い横棒が付いた形、ということである。ふつう、数字の1の場合は、上端の横棒が右側には突き出ない。
「そんなことないわよ」
「でも、何度も見ましたよ。今回もそうなっているし」
「そんなことありません」
 先生のこの言葉が、思いもかけずきっぱりとしたものだったので、私は少したじろいだ。先生は、それ以上私になにも言うことなく時間割表を作る作業に戻って、私はその場を去った。

 と、これだけのことなのだが、後から考えてみると、どうもその先生は私のことをあまり好いてはいなかったのではないか、むしろ「嫌い」に近い感情を抱いていたのではないか、と思う。ここには上の話しか書かないので、そういう可能性に私がなぜ気が付いたのか、今一つ納得してもらえないかもしれない。あなたには一方的な判断を押し付けることになってしまうわけだが、それでも、覚えている一つひとつのエピソードを積み重ねてみると、冷たくあしらわれた経験ばかりが目に付いて、好かれていたという証拠がどうにも見あたらないのである。先生の「温かい言葉」は、そういえば教室で全員に向かって言われたものしかない。少なくとも私のほうはその先生のことを大いに気に入っていたのだが、そうと気が付くのは、おそろしく悲しい経験である。

 ともあれ、二〇年も前のそんな出来事を思い出して、どうにかなるわけはない。当時私はわりあい幸せだったので、気が付かなかったらそれはそれで結構なことである。むしろこの断章から拾い出して今回の主題としたいのは、実は「1をIと書く人がときどきいる」(当の先生には否定されたが)という事実のほうである。数字というのは世界の共通語のようでいて、意外なバリエーションを持っているものである。一に関しても、
・ただの一本の縦棒。
・縦棒で、上端を短く左に曲げた形。
・縦棒で、上端を短く左に曲げて、下端に横棒を付ける。
という三タイプがまずメジャーである。一を書こうとして、アルファベットのIのように上下に横棒を書く人は珍しくて、スタンダードではないと思うが、まあ、意味がわからなくなるほどではない小変化である。

 スタンダードな三つのうち二番目、棒の上にだけカギをつける書き方は、手書きではあまりやられていないと思う。たぶんそれは、どうかすると七とややこしいからである(フォントによっては伝わらないと思うが、1と7、ほらね)。普通は7のほうの左上カドに下向きにカギをつけて(カタカナの「ワ」のようにして)、一と区別がつくようにしているわけだが、そうでないのも見たことがある。大学生のとき、フランス人の先生にフランス語を教わったことがあって、この先生の七が変わっていた。7の縦棒のほうに、斜めに一本線を入れるのである。ちょうどカタカナの「ヌ」に近くなる。日本ではそれこそ「ヌ」とややこしくなるが、そんなことを言えばどうせ既に「ワ」や「フ」とややこしくなっているのであり、なにより格好いいのでそれ以降私の手書きの七はヌになっている。かなり突飛な書き方だと思うが、それでも、初めて見た人でもだいたい、七のことだとちゃんとわかってもらえるようだ。

 さて、以上はわりあい目立つ例だが、「4」については、もっと目立たない、しかし重要なバリエーションがある。「上を開くかどうか」である。アラビア数字の4という文字を、保育園だか小学校で習ったとき、果たしてどう書くのが正しいというものだったか、確か上を閉じた、直角三角形にしっぽが二本付いた形でなかったかと思う。活字やパソコンの画面などで見る4もだいたい例外なくこちら、一筆書きできるほうの形である(だから、これは「4」のことである、と書いても、あなたの閲覧環境のせいで誤解する可能性はまずないと思う)。

 だが、そうではない状況がある。たとえば、日の字の素子を明滅させて作る電卓なんかで使っている数字の四は「Ч」に近い形で、いろいろ考えるとなるほど上を開いたほうの四をさらに一部省略して「Ч」にせざるを得ないということはわかるが、説明なしには通じない「約束事」ではある。はじめてこれを見た少年の日にコレハナンヤと首をひねったことは忘れられない。しかし、もっとプリミティブな、人間が書く数字で「上を開いて書くべきだ」とされている場面があって、それはOCR、光学文字認識をする場面である。コンピューターが人間の手書きの数字を読み取るアレのことで、郵便番号やアンケート用紙の一部がこういう形になっていることが多いのだ。

 最近はそうでもないのかも知れないが、どうしてこの場合数字の四の上を閉じてはいけないのかというと「9」とややこしいから、ということのようである。4と9ではずいぶん違う気がするが「上に閉じた図形があって下方に棒を引っ張る」というふうに特徴を取りだせば、確かに同じ文字と言えないことはない(かもしれない)。どうせコンピューターがやることと言ったら、まず人間が書いた数字を白と黒をビットマップに変換して「上の方に、黒で囲まれて孤立した白いカタマリがあります」「下の方にある黒い部分はある幅以下だから縦線でしょう」というようなチェックなのだろうから、その白いカタマリが円か三角かということは、やや難しい判定になるのではないかと思う。トポロジー的にも似ている。

 しかし、そういう理屈はりくつとして、数字の4は上を開いて書きましょう、と決まりになってしまうと、なかなかこれは対応に苦慮することである。いや、OCR用紙やハガキの赤いワクの中だけそう書けばいい、というならまだいいのだが、今の私は仕事で図面を引くことがあって、その中で「数字の4は上を開く」ということが社内の約束事として決められてしまっているのだ。どうしてこんな決まりがあるのかよくわからない。コンピューターが図面の数字を読んだりするかというと、そんなことはないのだが、人間が読む場合でも九と四がややこしくなるわずかな可能性はないではないから、それを排除したかったのかもしれない。

 それにしても、図面の数字、と言ったところで、図面のほとんどの部分、筆者の署名と日付を書くところ以外全ての部分は、私ではなくてパソコンがパソコンの書き方で書くのであり、パソコンが書く数字はパソコンの数字なので、上を閉じた、よくある三角形の「4」なのである。私はコンピューターのためにわざわざ上を開いて書いているのに、コンピューターのほうでは平気で閉じて書いてくるのは、なんとなく解せない。解せないが決まりは決まりなので、従わざるを得ないというところである。

 以上、なんだかグチのようなことを書いてしまったが、これまで二十数年間延々と書いてきた4の字体を無理にでも変えなければならなくなって、大変かというと、実はそんなことはない。決まりを一度知ってしまうと、あっという間に上を開く4の書き方に慣れてしまった。考えてみれば一度、大学生の時に自分の七の字を「ワ」から「ヌ」に変えているのであって、こっちのほうも別にストレスもなく変えていたのであった。「ずっと使ってきたのにおかしいじゃないか」「こっちの書き方でないと誤解するじゃないか」などとこだわっているのは私だけで、数字の書き方などというものは、なに、どうとでもなるものなのかも知れない。私の小学校の先生も、実はそういうことが言いたかったのではないかと思う。


※ご存知の通り、よく使われている「ローマ数字の一」という文字があって、この文章ではIをそちらで表現したほうがよいのだが、それはいわゆる「機種依存文字」というもので、ウィンドウズで書くとマックでは文字化けして見えるのだ(逆も正しい)。何というべきか、あっちょんぶりけである。
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