クロック周波数

「お先ぃ。今上がったよ」
 という声がして、わたしは読んでいた本から目を上げた。手ぬぐいと着替えの入った袋を下げて、浴衣姿の夫が部屋に入ってきたところだ。時計を見る。
「なあに、もう入ってきたの。えーと、十五分しか経ってない」
「いやいや、いいお湯でした。君も早く入ってくるといいと思うよ。だいたい、温泉くんだりまで来て、どうして本なんか読んでるのさ」
 温泉旅館の名前の入った手ぬぐいを、室内のハンガーにいいかげんに広げながら、夫はそう言う。
「えと、まあ、これもわたしにとっては天国だからね」
 わたしはそう弁解しながら、読んでいた本で顔を隠す。

「でも本当に、もっとゆっくりしてきたらいいのに。わたしが入ったら、一時間くらいは出てこないよ」
「なんでそう、テンポが遅いかね君は。だったら早く入って来なよ」
 と、夫は部屋の冷蔵庫から缶ビールを取り出してテーブルに置いた。そんなことを言われても、温泉地であくせくしてもしかたがないではないか。一応、これから夕飯までの時間、特になにもすることがない。開けっ放しの窓から高原の涼しい風が吹き込んでくる。夕暮れ前に、ぽっかりと空いた時間。
「ぷは。しかしなんだね。よく思うんだけど」
 温泉宿の部屋の、外が見える縁側のテーブルで、本に戻ったわたしの向かいに座って、ビールを一口飲んだ夫が話しかけてきた。
「なあに」
「昔っからそうだったんだよ、おれ。何事もみんなより早く終わる人間なの」
「ふーん」
 つ、とまたビールを飲む。君は、と缶を掲げてみせるので、わたしは首を横に振った。お風呂の前に飲むと、たぶん後でちょっと辛くなる。
「小学校のテストなんかでも、一番早く終わっちゃってさ。残り時間やることなくって、テストの裏にひたすら落書きしてた」
「点数良かったの」
 そんな話は聞いたことがない。
「いやははは、それが」
「それが」
「そんなに良くはなかったんだな。つまり、仕事は早いけど、いいかげんである。瞬発力はあるけど、持続力がない。そういうわけです」
「なるほど」
 わたしは首を大きくうなずかせる。

「おつまみ何かないかな」
「えびせんならあるよ」
 かばんを指差す。
「グレイト」
 えびせんの歌を歌いながら、いそいそとかばんをひっくり返し始める夫に苦笑する。
「あったあった。でね、思うのはそこでさ」
 続きがあったのか。わたしはかなり思い切って、開いていた本を閉じて脇にどけた。夫はえびせんの袋を背中から二つに開いて、テーブルの上に置く。ひとつかみ取って、端から食べている。
「会社のことさ。たとえば、ここに同じ量の仕事があったとします」
 指でつまんだえびせんをチョークのように使って、空中に同じ大きさの四角を二つ、書いてみせる。
「うん」

「Aさんは、のんびり屋で手は遅いのですが非常に粘り強く、一日一六時間働いても平気です」
 一方の四角の中に「A」と書くと、出したわたしの手のひらにえびせんを一山載せて、夫は続ける。
「Bさんは、集中して手早く仕事を片づける人ですが、そのぶん疲れやすく、八時間も働くとへとへとになります。帰ってから雑文も書けません」
「書かなきゃいいじゃない」
 夫はわざとらしく目を見開いてわたしの顔をみつめると、そのまま「うん」とうなずいて、さらに続けた。
「二人の仕事の量は同じですが、Aさんは月に残業六〇時間。一方、Bさんの残業は一〇時間くらいしかありません。頼んだ仕事が早くできあがるのでBさんのウケはいいのですが、定時後のトラブルへの対応ではAさんが頼りになります。Bさんはやや難しい仕事もこなせますが、仕事が粗いところがあるので、確実性ではAさんに劣ります。総合して、まずまず、どちらも同じくらい『仕事ができる』と上司には見られています」
 そこでまたえびせんを食べて、ビールを飲む。
「でもな。でもな、妻よ。それなのにな」
「うん」
「会社には、残業代というものがあるんですよ奥さん。でもって、残業手当を合わせると、Aさんのほうがかなり高給取りということになってしまうのだよ」
「あー、そうね。確かに」
「だからさ、おれがそのBさんだってわけじゃないんだけど、不公平じゃないかと思うんだ。仕事をとろとろやってるほうが、給料が高い、っていうのはさ」
 なにを言い出すかと思えば。

「あのね。だいたいわかるんだけど、穴があると思うな、その話」
「へ」
 ビールの最後の一口を飲み干した夫が、口をぽかんと開けてこっちを見ている。
「仕事の早い遅いは、まあしょうがないと思う。能力もあるだろうしね。でも『人より早く疲れきっちゃう』というのは、どうかなあ」
「あー、えー。そこは物の譬えだから。モノのタトエ」
「じゃあBさんは、根気が足りないだけじゃないのかな。自分の手が早いことにかまけて、人より努力してこなかったから、粘り強さとか、根性とか、そういう訓練をしなかったから、たった八時間で疲れちゃうんじゃないかな」
「む」
「仕事が遅いのはどうにもならないけど、根気さえあれば、残業して、仕事ができないわけじゃないと思う。『疲れきった』というのは、甘えでしょう。Aさんはこれ以上仕事できないけど、Bさんは結局あと八時間、遊んでるんだから」

「それと」
 と、えびせんの袋を持ち上げて最後の数本をざらざらと食べている夫をにらんで、
「えびせん、食べるの早すぎるのよっ。わたしまだ十本くらいしか食べてないのに」
「むぐぐ」
 口一杯にえびせんを頬張ったまま、片手で拝むようにしてぺこぺこと頭を下げる。私はまだ濡れている夫の頭を軽くはたいた。
「ぐ。いやいや。すまんすまん。つい」
 やっとえびせんを飲み込んだらしい。どんな食べ方だろ。
「ホントにもう」
 わたしはあきれて、もう一度読みかけの本を手に取った。

「でもな。それはそれとして」
「なによ」
 夫はにっこりと笑ってみせて、言った。
「風呂には早く行ってきたほうがいいと思うな。夕飯に間に合わないぞ」
 窓の外は夕焼け。長いような短いようなお休みの一日が、暮れようとしていた。


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