「不幸自慢」のようになってあまり健康的なことではないが、理系の労働者は、あくまで印象としては、おしなべて損をしていると思う。やっている仕事の内容に比べて、社会での地位や労働時間の長短、人生の幸福さ加減において不当な扱いを受けている気がするのだ。ただ、ずっと先、人生において何事かをなしたその後のこと、たとえば死後について考えてみると、話はまた変わってくる。科学者や技術者の系統に列する偉人に比べて、文学者や法律家、政治家といったいわば文系分野の偉人たちはちょっと低く評価されがちではないか。
これは個人的な話としては私が、どちらかというと科学・技術史に親しんでいるせいだが、もう少し一般的な、より大きな理由として「理系の偉人のほうが『偉さ』を端的に表現しやすい」ことがあるかもしれない。つまり「これこれを発明・発見した人」というふうに分かりやすく業績を評価できるのだ。これがたとえば政治家であれば、やっていることはわかりにくいし、後世の人々の政治的な立場によって毀誉褒貶もある。文学者の場合はまだ代表作をもって名が伝わることがあるわけだが、それにはまず作品が読み継がれている必要がある。不朽不変の「ピタゴラスの定理」だの「アルキメデスの法則」などに比べると、これがなかなか難しいことだ。公平に見て、やっぱりこのあたりは文系に不利なシステムになっていると思う。
とまあ、おそらくそういうわけで、偉人、二宮尊徳はその知名度のわりに一般に知られているところが少ない。いや、誰に確かめたわけでもないのだが、ちょくちょく言われることではあるので、おそらくその通りだろう。例の「薪を背負いつつ読書にいそしんだ少年時代の金次郎像」以外になにか一つ言ってみよ、という話だが、このへん君はどうか。関係ないが、坂田金時、童話の金太郎のストーリーも「足柄山でまさかりを担いで熊と相撲を取った」しかないわけで、この二人、どうも似ている。名前が似ているのがいかんのかもしれない。
さて、実はこんな話をはじめたのは、先日ドライブの途中で「二宮町」という町の道の駅に立ち寄る機会があったからである。栃木県にそういう名前の町があって、二宮尊徳ゆかりの地であるとのことなのだが、もちろん何を発明した人わけでもないので、私は彼がどういう偉業を成し遂げた人なのか、それが二宮町とどう関係あるのか、全く知らなかった。知らないまま、なんということはなく二宮町を通り、なんということはなく道の駅に降り立ったのである。
と、ここで蛇足ながら、知らないと以後の話がよくわからないので、道の駅について解説をしなければならない。道の駅というのは、ざっと言うと高速道路でいうサービスエリア(またはパーキングエリア)である。サービスエリアは高速道路から出入りする施設だが、道の駅は普通の街道に沿って建てられている。公団や民間企業ではなく自治体が運営していて、駐車場とトイレのほか、地元の文化や観光名所を紹介する観光案内所、野菜や工芸品など名産品を売る売店があって地方色が豊かである。場所によっては喫茶店やちょっとしたレストラン、たまには温泉や展望タワーなんかが併設されていることもある。
なにしろ高速道路にはそれしかないのでサービスエリアに行くわけだが、一般道にはコンビニだのファミリーレストランだの民間の施設がいろいろあるわけで、道の駅の利用者がそれほどいるのか不安になるところかもしれない。しかし、サービスエリアがそうであるように、道の駅にも一種の「型」、フォーマットが決まっているので、実は意外に安心感があって、入りやすい。マクドナルドは世界中どこに行ってもマクドナルドなので海外旅行で見つけるとほっとする、という話を聞いたことがあるが、そういった感覚だろう。
さてその二宮町の道の駅がどうだったか。その日は平日で、つまり私は妻と幼い娘を連れて平日にドライブしていたわけだが、それでも駐車場はそこそこいっぱいになっていて、車を止めてから歩く距離は、少し長かった。道の駅の通例として売店、トイレ、案内所などがひとまとまりになっていて、そこに大きな二宮金次郎像が設置してある。なるほどなるほど、と思ったすぐあとで、こういう立て札が目を引いた。
「『道の駅にのみや』外からのゴミの持ち込みはご遠慮ください」
サービスエリアがそうであるように、ここでもやはり家庭からのゴミの持ち込みに悩まされているようである。自分の家から出たゴミを道の駅に持って行けばタダで曜日関係なく捨てられる、と最初に思い付いた人は自分の賢さに感動してしまったのではないかと思うが、かなりいじましい行為である上に、片づけさせられるほうはたまったものではない。まあ、初めてここに来た人が最初に目にするメッセージとしてはちょっと排他的な印象を受けてしまうが。
「やられた」
と私がつぶやいたのは、しかしそのことではない。近くまで来てやっと分かったのだが、いや廃虚だったというのではなくて、今日は売店が休みだったのである。慌てて手持ちのガイドブックをめくってわかったところによれば、火曜日はこの道の駅にとって「定休日」なのだった。これは痛い。何を買うというわけではないのだが、やっぱり道の駅の楽しみの大部はここにあると思うではないか。
「そもそも、こういう所に『定休日』があることが、間違ってると思うなあ」
「うーん、がっかりだねえ」
と妻も言う。まあ、お客さんも少ないのだろうな、と思った。普段は活気にあふれているのだと思うが、売店の前には空の陳列台が虫干しされていて、ソフトクリームの一つも買おうと思っていた私たちは、恨みがましく、閉まっている売店の前にやってきた。
「あ、スタンプ、これだ」
「えー、これか」
入口の窓には、メモ用紙の束が貼り付けてあった。この夏から冬にかけて、関東の道の駅では「スタンプラリー」というものを開催している。各地の道の駅に置いてあるスタンプを専用の冊子に押して集めると、あとで抽選で商品券などがもらえる、というものである。景品は客観的に見てあまり素敵なものではないのだが、とにかくスタンプラリーの感覚が面白くて実は夏から集めている。その冊子を今回も持参していたのだが、スタンプはなくって、スタンプを押した紙だけがあったわけである。窓に貼ってあった説明書きによると、スタンプが盗まれたことがあるので、いつもは売店のカウンターにスタンプを置いてある。休み中に来た人のためにこうしてスタンプを捺した紙を窓に貼り付けてある、のだそうである。私は一枚とって、スタンプラリーの冊子に挟み込んだ。なんだかつまらない。あとでスタンプの個数を確認してもらうときに、ちゃんとカウントしてくれるんだろうか。くれたらいいなと思う。
「どうしよう」
「まあトイレ行って、ジュース飲んで行こうか」
もちろん「定休日」と言ってもトイレは開いているし、自動販売機は動いているわけである。トイレを交代で済ませた私たちは、自動販売機で「侍」という汗臭そうなスポーツドリンクを買って、やっぱり交代で飲んでしまった。九月に入ったとはいえ、今日は暑い。と。
「ありゃ、捨てるところないのか」
きょろきょろと辺りを見回してみるが、ない。本当にない。どうも、売店が休み中はゴミ箱も全て片づけてしまっているらしい。休日、目の届かない時に家庭のゴミを捨てられないようにしているのだろうか。それはいいが、ではこのペットボトルの空いたやつ(そういえばこれ、何というのだろう。空きペットボトル、か)、どこに捨てればいいのか。持ち帰れ、というのか。
ここでどうしても「『道の駅にのみや』外からのゴミの持ち込みは」という偏狭な立て札のことを思い出してしまうのである。そもそも、道の駅の外から持ち込むといっても、他の道の駅や、コンビニや、そういったところで買った缶やペットボトル入りの飲料を車の中で飲んで、空いたものを捨てたい、と思うことはある。家庭からのゴミは論外としても、そういう「ドライブごみ」を捨てる手段くらいは用意してくれてもいいのではないか。この道の駅にある自動販売機からだってゴミは出るわけで、ここから買って他の場所に捨てる人もまず同数いるのだから、お互い様であるはずなのだ。あんまりではないか。
よく見ると、自動販売機の裏などに、缶や空きペットボトルが幾つか捨ててある。確かにこうするしかないだろう。たぶん、翌日、売店を開けに来た職員が掃除をすることになるのだと思うが、これはむしろ、厳しいことを言うならば、自業自得であると思う。もっと言えば、少数のモラルのない利用者のゴミを捨てさせられるのがイヤであるからといって、大多数の普通の来客に不便をかけるのならば、道の駅なんか最初からやらないほうがいいのである。疑心暗鬼にもほどがある。だいたい、そのへんのコンビニにできていることではないか。
私の二宮町の道の駅への印象はそんなであって、道の駅にあってこちらは開いている(ように見えた)観光案内所にも腹を立てて寄らなかったから、二宮尊徳がこの町で何をしたのか、ついに知ることはなかった。何をしたのだろう。そういうわけで、政治家というのは、まことに損な職業ではないかと思うのである。