満月の夜に外に出て、月の光にてらされた町並み、いつもとはまるでちがった世界をながめながら、しばらくさんぽする。それがどんなに楽しいことか、わたしにはよくわかりません。わたしは小さな月が2つきりある星、火星で生まれ、そだった人間だからです。わたしは12才。火星へのだい27期にゅうしょく者の父と母のあいだに生まれました。
わたしの母のシズコは、ずっと前から木星軌道にいます。わたしは母のきおくはそんなにたくさんはなくて、おぼえていることは少ししかありません。でも、わたしがまだ6(地球)歳のときに、こんなことを教えてくれました。
木星の月のうち、大きな4つはずっとまえから人間に知られていたものです。イタリア人、ガリレオ・ガリレイが発見しました。ところが、この4つの月、木星のまわりを回っている大きな4つの月は、内がわから、
イオ
エウロパ
ガニメデ
カリスト
のじゅんばんになっているのです。つまり、あいうえおの50音じゅんです。そのうえ、この4つの月の内側にもうひとつ、アマルテアという月が回っていますが、これをふくめても、だいじょうぶ50音じゅんなのです。ガリレオがそんなことを知っていたはずはないので、これはたぶんおもしろいぐうぜんというだけのことです。でも、すくなくとも、この覚えかたができるのは、あなたが日本人だからよ、と母はわたしに言いました。このおかげで、1度だけ、エレメンタリのしけんでマルをもらったことがあります。
じぶんが日本人であることがどれだけ意味のあることなのか、わたしはよく考えます。わたしの住んでいる火星には、いま220,000人の人がいますが、だれもがじぶんの国をいしきしているわけではありません。父のミキオはそういうことにはあまりこだわらないひとで、火星には日本人の友人はほとんどいないそうです。母のシズコはちがっていました。月の話をするなら、地球の、日本が秋のころには、フォボスとダイモス、火星の2つの月を見て、お月見をするのです。たぶんコンパイラを使ったまがいものだと思いますが、小さなススキやお団子もよういしていました。フォボスにはうさぎはいないけどね、と母はさみしそうに言っていたものです。
父と母が火星に来たころは、星がきれいだったそうです。そのころは空気がうすく、まちの光もくらかったので、砂あらしのない日は天の川が見えたといいます。それからすこしずつ、毎年、まい年、こころもち、空気がこくなって、あたたかく、暮らしやすくなってゆきますが、星はあまり見えなくなりました。まだ見える、明るい星ぼしも、またたいて、ゆれるようになっています。これはすべて、人間が火星につくりあげた、大気のためです。
そして、母は父とわかれ、木星軌道のじっけんプラントに行きました。そこでは、この火星より星はきれいだと思いますが、自分のことを日本人であると思っているひとは火星よりもっと少ないでしょう。日本人であることにこだわった母が、火星を去って、よりによって木星軌道に行ってしまったのはどうしてだろうとよく思います。
「わたしは、人間ぎらいだから」
と1度母がわたしに言ったことがあるのですが、わたしは信じていません。たぶん、母は、こどくにたえることができる人、ただそれだけなのでしょう。
こういうとき、アメリカ人であれば、コロンブスのことを引き合いに出すのかもしれません。コロンブスは、かつてヨーロッパから船で大西洋をわたり、アメリカ大陸にたどりつきました。地球はまるいのだから、こちらにゆけば遠いインドにすばやくたどりつけるはずだ、と信じて海にでたのです。どちらかというと「見つけられるほう」だった日本人としては、かれがじつはアメリカに着いたのに、インドの西のどこかであると信じてうたがわなかった、ということになんだかおかしみを感じてしまいますが、いまこうして火星の家から木星を見ていると、あのころのひとびとの気持ちがすこしだけわかります。ひとは自分が立っているばしょが、丸い星の上だとほんとうに信じることはできません。それがわかるのは、高く、たかく飛んで、自分の暮らしてきた星をふりかえることができた人だけかもしれません。
母が木星に行ってしまってからは、わたしの月見は木星の月を見る月見になりました。父は気むずかしくなり、母がしていたことはなにもかもしたくない、というふうになってしまったので、わたしだけが、そのきせつが来ると、そっとかんそく室に望遠鏡をだして、木星の月を見るのです。わたしの小さな望遠鏡では、木星のよこに光るちいさな点が見えるかどうかなのですが、お月見には違いありません。木星のまわりを回る小さな4つの点。かつてガリレオが太陽系のしゅくずとして見つけた、小さな世界。母もやはり火星に望遠鏡を向けることがあるのでしょうか。わたしにはわかりません。
でも、母にはわらわれるかもしれませんが、いつかわたしも、宇宙に出たいと思っています。木星へ、母のもとへ、そしてさらにさきへと。そうして、いまわたしが暮らしている火星を、それからさきに住むすべての星を、また外からふりかえってみたいと思うのです。そこにあったものが、自分にとってどんな意味があったのか、遠くからふりかえるためだけにでも。そのときが来たら、きっと口をついて出るのはつまらない感想だけではないかと思うのですが、そうして、宇宙船から自分の星を見て、こんなことを言おうと思うのです。たとえば、そう「やっぱり丸かったんだ」とか。