六万八千人月の償い

 この前からどうも調子が悪い伝熱服の腹を、俺は手袋のひらでぴしゃぴしゃと叩いた。測温抵抗体かなにかがおかしくなっているらしく、左脇腹のあたりが凍りつきそうに寒いか、あるいは火傷しそうに熱いかどちらかになるのだ。今はその前者だった。せめて少しは暖かくならないかと、こんどはごしごしこすってみる。俺の流刑地であるここ、火星の地表から見る太陽はあまりにも小さく頼りなくて、摩擦で生まれたささやかなぬくもりは、強い風にたちまち吹き散らされてしまう。

 俺は腹のことはあきらめてシャベルを握りしめ、苦労して掘りかけの穴をもう少し広げると、苗床からギルジュの苗を一本取り、穴の中に植えた。根の上にいいかげんに土をかぶせ、背中の水缶から、どうにか凍っていないという温度の、肥料入りの水をかける。赤く乾いた大地に暗い色のしみが広がり、それからゆっくりと消えてゆく。これで一万三千三百二十八本。いや、どうだったかな。まあ、どうでもいいか。

 もう一度シャベルを取り、次の穴になるはずの地面に最初の一撃を加える。左を見ると、深く青い空の下、俺が植えてきたギルジュの苗が列になって、ずっと地平線のかなたまで続いている。向こうの列で、同じようにギルジュを植えている男が大儀そうにのびをして、休憩時間でもないのにその場に座り込んだ。俺は走っていってそいつの頭に一発喰らわせてやりたい衝動にかられるが、どうにか我慢して、もう一度穴を掘る。喧嘩をしてどうなるんだ、同じ自分じゃないか。

 懲役六万八千人月、それが俺への判決だった。事件の時に正確に何が起こったのか、いまだにはっきりした記憶がない。ないがしかし、俺の操縦していた貨物機が、定められた針路をそれ、住宅地に突っ込んでいったらしいということはわかっている。機長の俺はアドバンスド・バイオロジカル・ライフ・セービングなんとかかんとかのおかげで命ばかりは助かった。しかし、横に乗っていた副操縦士をはじめ、俺の機が下敷きにした二〇人ほどのオリジナルの中には、俺ほど運の良くなかった奴らがいて、それで、裁判所は俺のちょっとしたポカの代償は火星への流刑だということを、決定したのだった。

 自分で言うのもおかしいが、事故のもたらした被害は相当なものだった。会社が失った航空機や善良な人々がいきなり失った住宅の数々、消火や救出や捜索や事故原因究明や復旧や裁判にかかったあれやこれやの費用と手間、たとえ、俺が(そこそこ高給取りである)操縦士の地位を保って、ずっと定年まで働いたとしても、その何分の一も償えないほどのものだった。どんなことをしても取り返しのつかない人命のことを考えに入れなくて、それなのだ。

 こういう場合、昔はどうしていたのだろうと思う。個人に、払える負債の限度額というものがあった時代、寿命で死ぬまでタダ働きしてなお返せない負債を負ってしまった人は、どのようにして社会に償いをしていたのか。しかし昔は昔、現在はもはや問題は笑ってしまうほど簡単で、流刑、クローン刑がその債務者の借金を取り返すのだ。

 事故から三年ほどを原因究明や裁判や、被害額算定やなにやらかやらの事務処理、それから火星ゆきの準備に費やして、俺は宇宙船に乗せられた。といっても、これが面白い体験だと思ってもらっては困る。棺のようなカプセルに入れられて、経済軌道を進む宇宙船の中、火星まで数年を眠って過ごすのだ。

 そしてあるとき船の中で目覚めたら、俺は五六七人になっていた。思い出すだに、そのときの気持ちの奇妙さといったらない。俺が眠っている間、宇宙船ははるばると虚空を進んでいた。その間に宇宙船がなにをしていたかというと、せっせと俺のクローンを作っていたのだ。俺の体から体細胞を採取し、胚細胞を合成して、促成栽培でもって成長させ、俺からコピーした記憶を植え付ける。そうするうちに、俺一人が乗っていた宇宙船は、五六七人の「俺」達がひしめく大所帯になって、火星の衛星軌道に到着したというわけだ。全員が俺とそっくり同じ記憶を持ち、自分のことを俺だと思っている。こんな奇妙な体験は、あまりない。

 それからもう何年経っただろう。火星の二五時間の一日の中で生活していると、日付の感覚が曖昧になる。俺はせっせと火星の大地を灌漑し、耕して、ギルジュの苗を育て、植え、剪定して、あるいは自分の飯を作り、風呂を入れて、時には自らを監視して、怠けた奴を罰して、あるいは病気や怪我を看病して、ともかくも仕事を続けた(仕事は自然とローテーションになった。同じ俺じゃないか)。五六七人の俺は順調に行けば十年で科せられた懲役、六万八千人月を達成するはずだ。六万八千人かける月は、五六七人かける一二ヶ月かける十年に相当する。そうじゃないか。

 最初は辛かったものだが、うまくできたもので、不慣れだった力仕事にも、悪戦苦闘するうちに徐々に慣れてきて、楽になってきた。たった十年なら、確かにこんな暮らしも悪くない。あの事故には、ポカはあったが悪意はなかった、と裁判所が裁定してくれたおかげで、俺は人類に対して与えた損害を、自分自身で返すチャンスを与えてもらったわけだ。俺の植えたギルジュは、食べるとうまくて栄養がある。しかもそれだけではなくて、やがて火星を緑化し、地球に似た環境に作り変えるはずなのだ。流刑者にはもったいない、立派な仕事ではないだろうか。

 俺はそんなことを考えながら、無意識に脇腹をぽんぽんと叩きつつ、シャベルを振るった。穴の大きさはこれくらいでいいだろう。一服代わりに空を見上げると、薄い大気のどこかに、地球の光が見えるような気がする。本当に、ここの空は深い。

 そうだ、一つ、たった一つ気になることがあるとすれば、五六七人に増えた俺達が本当に地球に帰れるのかどうか、ということかも知れない。うわさによれば帰路の宇宙船の中で、オリジナル一人を残してクローンは全て処理されて、次の流刑者の原材料になるということで、いや俺が地球で増えたままだとなにかとややこしいからそれはそれでいいのだが、ちょっとむごい話のような気もする。オリジナルの俺はいいとして、他のクローンたちにとって、刑期の終わりイコール死ではないか。

 とはいえ、そういえば、そのあたりのことを「俺」達と深く話し合ったことはない。ここでは話し相手は「俺」しかいないので、何によらず、いつまで話し合っても結論が出たりはしないのだ。最近では会話もなく、飯場に戻っても飯を食べて寝るだけになっている。幸いというべきか。

 俺は冷えすぎて痛くなってきた脇腹を、無駄と知りつつもう一回こすってみた。向こうで作業していた「俺」が、いつの間にかこっちをじっと見ている。簡単なゴーグルの奥からのぞいている目が、なにか哀れむような光を帯びていると見えるのは、気のせいだろうか。漠とした不安を、哀れむのは俺のほうだクローン達め、と声に出さずにつぶやいて、どうにか打ち消すと、痛みをこらえてかがみこんで、もう一本、ギルジュの苗を植えた。これで一万三千三百二十九本。いや、どうだったかな。

 ふたたび空を見上げると、じっくりと西に傾きつつある日差しの中、赤い砂とともに、再びの強風が、俺の体を伝熱服ごと切り刻むような勢いで吹き、また去っていった。この空の下に、五六七人の俺。その中にオリジナルは…、俺の、いや、まあ…どうでもいいか。


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