その名は忍

 日本のある地方には、諜報および不正規戦闘の専門家集団として、自らの技術をひたすらに鍛え研ぎ澄ましている部族がいる。大は厳格な掟と相互監視によって作り上げられた緊密な組織、要塞化された民家や村落から、小は超人的な体術、諜報活動に必要な武器道具に複雑な暗号システムに至るまでを、独自に作り上げている異能集団であり、あるときは特定の大名の庇護下で、またあるときは自らの目指す暗色の目標に向けて、戦国時代に隠然たる勢力を誇っている。彼らは「乱破」「透波」「草」など、さまざまに異名を持って呼ばれるが、現在では「忍者」という名で広く知られている。

 七〇年代後半から八〇年代にかけてを小中高生として過ごした私の忍者についての知識を書き下すと、既して以上のようなものになる。「巻物くわえてドロン」というような古い忍者の姿は、それはそれでファンタジーとして、上記の、やや合理的なイメージを真実に近いものとして考えていたわけだ。たとえば足に履いて水の上を歩く「水ぐも」は無体な作り事で、さやがシュノーケルになる忍者刀や追っ手の足裏に痛撃を加える「まきびし」は、それに近いものが実在していたと、そういうふうに信じていた。

 忍者というのはそもそもの存在意義からして虚実入り混じった存在なので、これがどこまで正しい知識なのか、実のところこの歳になってもよくわからない。おそらくは、子供だった私が信じていたよりもう一段、寒風吹く現実に即してシビアな方向で修正を加えたあたりが真相なのだろうとは思うのだが。たとえば、忍者の組織においては構成員をおおまかに「上忍」「中忍」「下忍」に分ける、という知識がある。これは上忍と呼ばれる大将、総指揮官の下に「中忍」と呼ばれる現場監督が属し、その下に実働部隊である「下忍」がいるという話だが、これがどうも資料的な裏付けのない嘘、嘘といって悪ければ想像であり、それどころかこの話を作った人もわかっていてそれは司馬遼太郎だ、という話を聞いたことがある。

 しかしながら、この「上中下」制度は、少なくとも非常に合理的で明快で、話として面白いシステムではないだろうか。正規の軍で言えば大将、部将、雑兵、テレビの特撮もので言えば悪の帝王の下に怪人がいて戦闘員がいる(つまりバグエンペラー−バグノイド−バグメイト)という図式であり、作劇上の広汎な応用が期待できる構造である。見ているほうとしてもシステムを大づかみに把握しやすく、また実に「さもあらん」あるいは「当たらずとも遠からず」な感じがするのではないか。

 もちろん、いかにももっともらしく、また物語の都合上便利であっても、実際の組織で似た組織構造が採用されているか、そのほうが実際的かというと、それはまた別の話である。本当の忍者がどうだったかはさておいて、現在でそれに相当するものというとたぶん暴力団やテロ組織がそれに近いのだろうと思うのだが、ここでは「上中下」はシステムとして整いすぎて、かえって脆弱なのではという気がする。たとえば、下忍を一人捕まえる。訊きだした情報で中忍をおびき出して、消すことができれば、組織の被害はこれだけに留まらない。彼の下の下忍すべての活動が封じられてしまうのだ。これでは、上下関係が組織上の弱点になってしまう。会社や正規の軍隊であればともかく、こういういわば地下組織の場合は、上意下達の効率性よりも、構成員が隣の構成員だけを知っているような、どこが尻尾だか頭だかわからない構造を取るほうが、ずっと有利ではないだろうか。

 と、慌てて注釈を加えなければならないが、以上の考察だって、確かな情報や実体験から来たものではない。忍者の組織の一次資料に当たったわけでも、忍者組織を運営したことがあるわけでもなく、私が「いかにもそれらしい」と考える、もっともらしい嘘かもしれないのだ。「上中下」が素人考えなら、こちらも素人考えである。

 他の例を挙げよう。自衛隊員が「毎日基地でランニングしてときどき基地祭りで焼きそばを焼く人」であるように、忍者というのは体を鍛える人である。床の上に濡れた紙をのべて、その上を破かないように歩いたり、背中に長い帯をくくりつけてこれが地面につかないように走り回る。さらに忍者は種をまく。成長の早い植物、一説によれば麻の種を、庭にまく。麻はどんどん成長するわけだが、これを毎日飛び越すのだ。最初は楽勝だが徐々に苦しくなる。しかし「今日の麻」を飛び越すべく、昨日より少し高く飛ぶ努力を続ければ、麻が伸びるに連れてぐんぐんジャンプ力が増し、ついには超人的な体力を得ることができるのである。

 それは嘘だろう、とは思うものの、この圧倒的な明快さに反論するのはなかなか難しい。オリンピックの高飛び選手がみんな麻飛び練習法(余談だがこう書くとなんだか「大麻を吸ってトリップする」と言っているみたいだ)を取り入れてはいないのだから、これではうまくいかないのは明らかである。しかし現実に植物を飛びつづけた人はあまりいないのであり、実際に試した場合どこで破綻が来るのかはちょっと想像しがたい。

 まずはこういうふうに考えることもできる。試練となる、飛び越すべき植物の高さが時間に対してほぼ直線的なのびを示すのに大して、飛び越す人間のほうの上達曲線は、決してそのようにならない。そもそも筋力などのトレーニングは簡単すぎてもいけない、体を壊すほどきつくてもいけない、「ちょっと辛い」くらいの試練をずっと繰り返すのがよいとされる。麻飛びの場合、低すぎて訓練にも何にもならない、簡単すぎる時期がずっと続いたあと、数週間「トレーニングにちょうどいい高さ」になって、しかしその高さに合わせてジャンプ力が向上する前に、人間を置き去りに麻は高みへと伸びていってしまう、というものになるのではないか。

 などと、またも想像を書いたわけだが、ことこれに関して言えば、私にも素人考え以上のなにものかを述べる資格があるのではないかと思う。私に子供が生まれたのは去年の二月だが、そのときの子供の重さは二五〇〇グラムを少し下回るくらいだった。ちょうど私のノートパソコンくらいの重さで、扱うべき丁寧さ加減も、まあ、同じようなものだと思う。ところが、恐ろしいもので、それから一年少々経った今、この子の体重は、今や九キロあまりにまで激増している。体重六〇キロの人が、一年で二百キロくらいに太ったと思えばよい。幸いノートパソコンよりはずっと手荒に扱って大丈夫になっているのだが、だからといって米袋のように扱ってもよいわけではない。それなりに壊れ物である。

 去年の夏ごろのこと、この子を抱き上げた状態で買い物などをするようになって、私は思った。
「これは忍者の訓練法ではないか」
子供は順調に重くなってゆく。しかし、重い荷物を持って日々生活を送ることで私のほうも筋肉がついてゆく。毎日重くなる子供を抱っこしつづけ、次第に負荷を増やした運動を続けると、めきめきと体力がついてゆき、子供はいつも楽々抱っこ、しまいには三十キロくらいの米俵も楽々運べる、そういう人間になれるのではないか、と。

 つまり、こういうことだ。一年経って荷重が九キロを越えた今、麻を飛びこしつづける忍者の訓練法がどれだけ真実味があるかということを、実際の体験をもとに評論できる立場を私は手に入れたわけである。ではその結論は、どうか。

「ダメでした」という結論にならなければならない気もするのだが、真実を書くと、それが、結構これが、体力がついたような気がするのである。一年前と比べて、上腕や腰のあたりに、こう、むきっと筋肉がついてきたような気がする。少なくとも、家でごろごろしているよりはずっと筋肉がついた。これは間違いない。してみると、忍者の訓練法も、ある程度意味のあるものなのだろうか。

 しかし一方で、筋肉がついて子供を楽々と抱っこできるようになったかというと、そうはいかないようである。持ち上げれば重いと思うし、子供と買い物に行った帰りには、いつもぐったりとしてしまう。考えてみれば、トレーニングの本質が「ちょっときつい運動をしたときに体力が向上する」というものであるならば、これは確かに、そうでなくてはならない。子供の重量が負荷にならなければ筋力は向上しない。筋力トレーニングになるのは「ちょっと重い」場合だけなのだから、子供を持ち上げるための運動を子供を使ってやっている限り、子供はいつも「ちょっと重い」。楽々持ち上げられるようには決してならないのである。

 言い伝えられてきたもっともらしい情報を具体的な実体験でもって否定するのは、かように辛く苦しいものである。現在の忍者が棲むのは、そうした闇の中ではないか。うむ、腰が痛い。


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