宇宙に届く新聞紙

 糸井重里恐るべし。先だって新聞を読んでいたら、彼が「現在は、誰もがツッコミどころを探している『小姑文化』の時代である」と書いていた。もちろん私には、今世間がどうなのか、若者がどうなのか、などということを論ずる資格はないけれども、ただ一つ言えることがあって、それは「私は本質的に小姑である」ということである。特にこのサイトのこのコーナーなど、考えてみるとまさに「小姑文」ではないだろうか。大西です。職業は小姑です。

 さて、新聞といえば、読者諸氏におかれては「新聞を小さく折りたたんでゆくと」という話をどこかで読んだことがあるのではないか。普通の朝刊紙はだいたいA1くらいのサイズで、これを半分に折りたたむとA2のサイズになる。もう一回たたむとA3、さらにもう一回でA4だが、サイズが半分になるずつ、たたんだ紙の厚みが増えてゆく。実際には十回もたたむことはできないけれども、仮想的にこれをどんどん続けていったとして、百回たたむとどれくらいの厚みになるか、という話である。

 今試してみたら、六回たたんだ時点(A7サイズ、六四枚重ね)で厚みは四ミリメートルほどだった。これをもとに百回折りたたんだときの厚みを計算すると、枚数が二の百乗なので八に掛けるところの十の二二乗キロメートル。だいたい一千万光年くらいの厚みである。銀河系の直径がオーダー十万光年だから、これよりずいぶん厚い。実際この数字はアンドロメダ星雲までの距離(二三〇万光年)よりも大きく、銀河系やアンドロメダを含む「局部銀河群」の外になる。新聞を、たった百回たたむとこうなるのだ。

 と、ここまではそのへんの豆知識の本を読めば書いてあるところであり、わざわざ私がもう一回計算してみせるほどのことでもないと思う(計算してしまったけれども)。要するに倍々に増えてゆく数字、累乗の威力の話である。しかし、ここで小姑は思うのである。紙の厚みはわかった。ではこのときの紙の面積というのは、どうなっているんだろう。

 ここで「本当はそんなに折りたためっこない」という外堀を埋めておかねばいけない気がする。そもそも「どこまでもたたんでゆく」というのは、紙の厚みを無視して、二次元的に見た場合にだけ許される操作である。実際にたたむときに邪魔になるのはたたんだ紙の端のところ、折り曲げたところが厚みに引っ張られてゆがむ、というのが問題だから、厚みがない数学的な平面ならいくらでもたためる。しかし、今はその「厚み」を計算したいので、そこのところ、ちょっとした矛盾がある。しかしまあ、そうはいうものの、折りたたむのではなくて、二つに切って重ねる、としたらそれで特に問題はない。どうして最初から「新聞紙を百回切って重ねれば」としないのか疑問だが、まあ、最初に考えた人が偉かったのだろう。またも小姑なことを書いているが、ここでは「切って重ねる」として先に進む。

 新聞紙を一回折りたたんだものがA2なので、百回折りたたむとA101になる。そんな規格はないが、まあ素直にはそうだ。規格によれば、A0のサイズが縦八四一ミリ横一一八九ミリで、このタテヨコが一回たたむごとにルート2分の1になってゆく(つまり二回たたむと縦横半分ずつ、ということである)。二回折ると、最初のちょうど半分のサイズだ。

 これを続けてゆくと、まずA20で短辺が一ミリを切り、A28になると厚み(上の数字を使うと、〇・〇六二五ミリ)と辺の長さが同じくらいになる。だからこの次の、A29にする作業は「紙を切る」のではなくて「一辺〇・一ミリくらいの小さい豆腐一億個に包丁を入れる」という感覚になるだろう。もう平面を二つに分割するという感じではない。余談だが、この辺に「折る」であって「切る」ではない理由がありそうな気がする。「切る」だと作業量(切る回数)が倍々に増えてゆくが、「折る」なら一回で済むのだ(できないけども)。まあ、それはともかく、さらに先に進むほど、作業は大根を細く細く千切りにしていって長さ方向に並べる状態になってゆく。

 大根の千切りをさらに細く刻んでゆくと、やがてA101にたどり着く。ではこの大きさ(いや「太さ」というべきか)はどうかというと、A101の一辺は一〇のマイナス一二乗ミリメートルをちょっと下回るくらいである。別の単位で言うと、一〇のマイナス一五乗メートル、一フェムトメートル(fm)以下だ。

 そうか、と納得してはいけない。これは原子核の大きさよりも小さいのだ。物質は原子からできているが、そのうち一番小さい水素原子の、さらにその中、体積的にはわずかな部分を占めている原子核よりも、紙は細くたたまれるか、切られるかしないといけないが、もちろんこれは無理な話だ。そこまで切ると紙ではなくなって、それどころか水素でも炭素でもなくなる。素粒子レベルの細さであり、もちろんひとつながりの存在ではなくなる。かつて紙だった中身を素粒子レベルに切り刻んで、地球からアンドロメダの向こうまで点々とばらまいたふうになるはずだが、これは「たたんだら」とはずいぶん違う。

 現実問題として、紙を構成するセルロースの分子よりも小さく切ったら、もうそれは紙ではなくなると考えるべきだろう(紙を燃やしたものは紙ではないから)。オーダーとしては一〇のマイナス九乗メートルくらい、紙の大きさでいうとA80あたりで、厚みは4光年とか、そのあたりになる。新聞紙をほぐして長くすると、一番近い恒星までの距離ぐらいの、セルロース分子がまっすぐ繋がった細いほそい糸にすることができる、というわけである。

 さて、言いたかったことは以上である。実に、どうでもよいことを延々と書いたような気がするし、そもそも「本当にそんなに紙はたためるのかい」という疑問から出発しているのでなんとも不健康な計算であると思う。でもいいのだ。自分が小姑である、ということを一旦肯定してしまえば、そんな自己嫌悪もなんだか快感に変わってくるのである。ダメだろうか。ダメな気もする。小姑大西、どこへゆく。


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