長かった夜がようやく明けて、しかし視界はまったく変わらなかった。艇全体がすっぽりと、どっちを見ても厚い雲に包まれている。水滴に覆われた風防からは何も、太陽さえ見えない。陽が昇ったことによる変化は、周囲の色が黒か、白か、というだけのことである。明るくはなったが、いくら目を凝らしても地上目標は何も見分けられなかった。
その単調な、ほうけたような白を見ていると、急に眠気に襲われて、そんな場合ではないのだと思い出さねばならない。なにしろ、こうして夜がすっかり明けてしまい、風に流されておおむね南に向かって漂流中の防空艇の操舵席に座っていると、昨夜のことがなんだか悪い夢の中のことのように思えてくるのだ。なまじ、目だけを露出させた、航空軍仕様の厚い防寒服に、頭の上まで暖かく覆われているので、なおさらそう思う。
昨夜、黎明近くに突然出撃を命じられたこの「帝国航空軍三〇四号防空艇」は、俺と射撃手の明石兵曹、機関担当の橋元兵曹を乗せて、索敵攻撃を行った。司令部からの指令は、いろいろあったのだが、要約すると「敵がなにやらいっぱい来たのでとにかく飛べばわかる」というようなものである。俺もよく諾々と飛んだものだと思うが、まあ、命令は命令であるし、曲がりなりにも軍隊であるし、実戦とは意外にこういうものかもしれない。
中小の捕鯨船とその乗員を丸ごとかき集めて編成された我々「防空軍」は、この夜、おそらく全力出撃を行ったのだと思う。戦争のここまでの成り行きが、痛み分け、といった雰囲気のものだったので、敵としても戦鯨隊をくり出してきて兵を上陸させるとか、帝都を砲撃する、などという派手なことは(こっち同様)無理だと考えられていた。一隻か二隻の、たぶん巡鯨クラスのフネを、夜間こっそり侵入させて、めぼしい目標を破壊して明るくなる前に去る、とまあ、その程度がせいぜいであるはずで、要するに俺たちはそういう相手を予想して、夜なべして待機していたのだった。
だが、そうではなかった。相手はずっと本気だった。内蔵された浮珠の浮力に任せて中高度まで一気に上昇した艇から、月齢の進んだ月明かりを頼りに俺たちが見たものは、星空を遮ってくろぐろと航行する何隻もの戦鯨だった。確かに飛べばわかる。見るからに防空艇では歯が立つような相手ではない。航空軍のほうでも、こういうときは残った正規の戦鯨を惜しみなくぶつけて雌雄を決する、ということになっていたはずで、捕鯨船改造のこんな特設防空艇やら捕鯨船船長をつかまえてきて任命した臨時士官やらには用がない、と思っていた。ところが現実としては、そういういいかげんなフネが、およそ八隻の敵戦鯨隊と、わずか二粁ほどの距離を隔てて対峙している。特に先頭にいる、あれは「アリョール」ではないか。
敵戦鯨隊を発見して、発見したものの声を失っている俺に対して、
「せっかくだから、一発撃って逃げましょう、少尉」
と伝声管を通して言ってきたのは、射手席についた明石だった。
「いい考えだと思うが、潜り込むのは難しい。高度差雷撃になるぞ」
明石の射手としての能力について、いいところ「中の下」というところだと思っていたので、俺はそういう返事を返した。
この防空艇の唯一の武器であり、浮珠を仕込んだ銛爆弾「鳥雷」を、空中にいる敵なり、浮鯨なりに当てようと思うと、撃ち方はだいたい二通りのどちらかになる。一つは垂直雷撃。浮珠の浮力と火箭の力で真上に打ち上げて、目標に当てる。普通、浮鯨に対してはこちらが劣位(高度が低い)になることが多いので、これをやることが多い。理論的には「真下の目標に対して銛を落とす」という攻撃も考えられるが、こっちは浮鯨相手も敵艦相手もほとんど考えられないので、捕鯨船ではそもそも鳥雷を真下に撃てるように作られていないことが多い。
もう一つは水平雷撃だ。鳥雷の中の錘を出し入れして、今の高度で鳥雷の重さと浮珠の浮力がつり合うようにしておいて、撃つ。文章にすると難しいようだが、艇内で鳥雷の重さが零になるようにすればよいので、原理的には意外に単純だ。こうしておいて撃つと、鳥雷は水平にまっすぐ飛んでゆく。相手と高度さえ合わせておけば、あとは水平面内の狙い次第というわけだ。技術としては水上艦艇における、魚雷射撃に近くなる。垂直発射よりは不確実な方法になるが、戦鯨において真下に向けて防御火器を装備するのは当たり前になっているし、水平雷撃でも編隊を組んで集中発射すればそこそこ命中率も上がるので、航空軍ではもっぱらこの射撃方法を取っている。
高度差雷撃というのはそのどちらでもない。高度差も距離もある目標に対して、斜めに打ち上げる射撃法だ。鳥雷の釣り合いと射撃角度を、同時に調整しなければならないので、当然、命中率は極端に悪くなる。相手との速度差とか、残り浮珠や燃料などの都合で、どうしてもこの射撃法を取らなければならない場合もあるのだが、一般には「鳥雷と浮珠を無駄にするだけ」とされていた。
ところが、ここに例外がある。浮鯨撃ちだ。考えてみれば、浮珠をある程度無駄にできる上に、綱を引いて銛と中の浮珠を回収することができる浮鯨撃ちにとっては、これはある程度許される射撃法なのだ。実は、俺も何度かこれで鯨に当ててみせる射手を見たことがある。もちろん、熟練した浮鯨撃ちが、十分な観測をした上で、それでもできれば避けたい方法ではあるのだが。
ちゃんと「当てる自信があるのか」と聞かなかったのが悪かったかもしれない。浮珠の浮力と重力とのつりあい位置で、機関を止めた状態、いわゆる「懸吊」の状態にある防空艇の中、明石は高度差雷撃の準備を始めたようだった。命令なしで、というのはたぶん軍隊では許されないことだろうと思うのだが、捕鯨船ではこんなふうに、各自が自分の意志で自分の仕事をある程度こなさないと、どうにもならない。それで(俺のような)無能な船長のもとでも浮鯨撃ち船は動いてゆくのだ。俺は、遅ればせながら、明石に向けて目標と射撃法を、それから後ろの機関室にいる橋元に機関全速力待機を命令する。息を潜める気持ちなのだろう。二人の了解の合図は、静かなものだった。
明石は、艇から安定板を繰り出して回転を止めたあと、天測を行って高度差を測定し、錘量と射撃角度を決めた。いや、ここからは見えないのだが、決めようとしているはずだ。伝声管からは、ぶつぶつと口の中で何かを唱えているのが聞こえる(算数だろうか、念仏だろうか)。とにかく、明石が真剣そのものだというのは伝わってきた。月は細く、暗い地上を背景にしているし、こちらは小艇だ。まだ相手には気づかれていないらしい。どうだろう。うまく行くかな。せめて肝を冷やせてやれればいいが。
「終わりました。射撃準備完です。目標は先頭の『アリョール』級」
と、伝声管の向こうから明石の声が聞こえる。俺は、ほんのわずかな間、逡巡したと思う。防空艇の艇長としては、いや、捕鯨船の船長としても、またしても失格だ。しかし、次の瞬間、
「撃っ」
と俺は叫ぶように言って、踏み板を蹴り込み、機関を接続した。おそらく、ついに見つかったのだろう、黒い鯨影にぴかりぴかりと閃光が見えたのだ。撃たれている。がつ、という鈍い衝撃とともに長い炎の舌を引いて、明石が撃った鳥雷が遠ざかってゆく。力強く回転するプロペラの圧力を受けて、艇がようやく歩みを始めた。
それからのことは、どうにもはっきりとは思い出せない。俺と橋元機関兵曹は二人して艇を操り、逃げに逃げた。自分の仕事を終えた明石は観測台に登って敵を見ていたが(心臓だと思う)、うまく当たったかどうかはよくわからなかったらしい。駆逐鯨の一隻がしつこく追いかけてきて、何度も撃たれた。こちらに当たったのかどうなのか、艇の古い機関が焼きついて止まったので、あとは浮珠を切ったり錘を落としたりして高度を変えてごまかすしかなかった。こうなっては風任せ、明け方になって出てきた雲の中に隠れられたのは、本当に僥倖だったと思う。
そうして、いつの間にか夜が明けた。雲から出るのはまだ危険な気がしたので、簡単には動けない。どうせ、武器もなんにもないのだ。
「あのー」
と、伝声管から声が聞こえる。明石だ。
「なんだ」
「少し眠らせてもらっていいですか」
俺は、ちょっとむっとしたが、すぐ、それもしかたないかと思った。確かに、機関を修理しようとしている橋元はともかく、明石に関して言えば、これ以上起きている意味はない。俺は、いいよ、とぶっきらぼうに答えた。
「もう突っつかないで下さいよ」
「わかったよ」
と応える。どうも一言多いのだ。叩かれたといっても防寒具の上から、どうせ大して痛くなかった癖に。
話し相手がいなくなって、俺は、いよいよぼうっとして、周囲を見回した。白い視界の中に、何かが見えたような気がしたが、気のせいだったかもしれない。少なくともこの瞬間、俺の戦争はすっかり終わったような気がしていた。