雲中遭遇戦

 少しうとうとしていたのかもしれない。がつ、と軽い衝撃にはっとして目を上げると、次の瞬間、金属同士をこすり合わせたような、とんでもない音がして、座っていた席から放り出されそうになった。母さんこんなところに箪笥を置いたら危ないじゃないか、とへんなことを考えたのは一瞬で、ここは依然として雲の中、漂流中の防空艇の操舵席である。動力を失った防空艇は、浮珠の作り出す浮力で、故国の空にぽかんと浮いたまま。確かな地上は遥かに遠い。

 視界の悪い風防の向こうに見え隠れするのは、なにか金属質の壁だ。なぜこんなに視界が悪いのかと思って見ると、風防の一部が砕けて、そこからぞっとするほど冷たくて湿った風が吹き込んできている。目が覚めた。
「大丈夫か明石。あっ、橋元っ。落ちてないか」
と、俺はそれぞれの伝声管のほうに向けて言う。捕鯨船を改造した防空艇の、操舵席は狭い。前半は壁の向こう、射手席にいる(確か居眠りをしていた)はずの明石に向けて、後半は機関室、機関を修理していた橋元に向けてだ。
「落ちてません」
「起きました」
と同時に声が返って来て、ほっとしたのもつかの間、ぶつかった金属の壁の正体がどうやらわかった。戦鯨だ。でかい。

 俺は、操舵席の中、なんとか立ち上がって、風防の割れていないところから外の世界を見た。依然として厚い雲の中にいる艇の外には、これまでと異なり、差し渡し四十米ほどもありそうな巨大な、塗装もされていない、剥き出しの金属のかたまりが見える。あまりに大きいので、両端は雲の向こうに隠れてよく見えない。これがいったい何なのか、いや、雲中で漂流していて衝突するのだから戦鯨には違いないが、それ以上詳しいことは、ここからではよく見えない。艇の向きを変えようにも、昨夜のあれこれで機関が焼け付いてしまって、動かしようがないのだった。俺は操舵席の上にある、観測台に登ることにして、傍らの棒を使って上げ蓋の取っ手を廻して、開いた。ちょっと考えて、棒の代わりに、壁にかかっている信号銃を手に取って、操舵席を這い出す。

 観測台に顔を出してみると、もう明石が登っていた。こっちに気が付いて、言う。
「敵です。『アリョール』ですっ」
「な」
言葉を失った。目の前の鯨体には確かに、現在帝国と戦争を戦っているところの、敵国の国籍標が塗られていた。おそらくはこの防空艇とぶつかった衝撃で、中央部が少しへこんでいる。俺は観測台の手すりを片手で握ったまま、しばらく動けなかった。なんとかしないといけないのだが、具体的にどうするべきか、頭が働かない。なにしろ、この艇に積んである唯一の武器は、もう使ってしまって、ないのだ。そういえば手に信号銃があるが、これは赤い煙を吐いて飛ぶのがとりえという代物だ。

 確かに、これは「アリョール」だった。だいたい紡錘型をなしている無骨な鯨体の下面に、太い旋回連装砲を前二基、後一基の合計六門装備している。縦舵、横舵と二重反転プロペラがあるはずの後尾は雲の向こうで見えないが、上のほう、前部絹室あたりに大穴が開いているのはよく見えた。何かがここに命中したらしい。

「どうしましょう」
 やがて、やはり登ってきた橋元がこう聞いた。どこかでぶつけたらしく、防寒服の頬のところが少し切れている。無事でよかった。よかったが、しかし、これからどうすべきなのか、俺だって知りたいのだ。情けないようだが、戦争は俺の仕事ではないのだ。確かこの間までは。
「さて、どうしよう、なあ」
と頼りなく考え込む。
「向こうは気がついていないみたいですから、このまま逃げましょう」
「気づいてないはずはないだろう、あんなにぶつかったのに」
とは橋元。
「あっ」
と声を挙げたのは俺だった。そっちを見て二人もあ、と言った。戦鯨の舷側、へこみのちょっと右あたりの壁が上げ蓋になっていて、開いたそこから長い銃身が突き出されていた。蓋の向こうには、その銃を支えている大男の兵士が見える。感覚的には、手が届きそうなほど近くだ。
「隠れろっ」

 ぶばば、と短く銃声がして、俺は慌てて元来た上げ蓋のほうに逃げ込んだ。たまたま艇の角度的に操舵室が最も相手から遠くなっているので、明石も橋元もこっちに向かって走ってくる。俺は、二人を先に上げ蓋の下に逃がすと、直径七十糎ほどの蓋を盾にしばらく頑張った。かんかん、ちゅんちゅん、と艇の天板、そこいら中で音がする。銃弾が命中しているらしい。戦鯨のほうでは、あと三ヶ所ほどの上げ蓋が開いて、今やそこに各一名か二名の敵兵がいる。それでもって、こちらに向かって何かを叫んだり、思い思いに鉄砲を撃ってきたりしているのだった。見ていると、艇尾のプロペラに一発命中して、先っぽがはね飛んだ、と思ったら今度は根本に当たってプロペラごと飛んだ。ついでに縦舵にも命中してぶすぶすと穴の列ができる。観測台を取り巻く手すりに当たって、妙に高い音を立てて鉄棒が真中からぐにゃりと曲がった。俺は慌てて上げ蓋の後ろに隠れた。俺が壊れるのも時間の問題だ。

「機関はまだ直りませんよ」
と、下のほうから橋元が、俺のちょうど聞きたかったことを言ってくれる。俺はがくがくと頷いた。動いても、プロペラがないのだ。
「なんで砲を使ってこないんでしょう」
と聞くのは明石だ。操舵席に三人は狭い。俺は梯子の途中にぶら下がったまま、首を無理にそちらに廻して、そりゃあお前、と答えようとして、
「…あ、そうか。こっちが射界に入らないんですね」
と明石は勝手に理解した。そうだ。戦鯨の旋回砲は、鯨体の下方ないし側方を狙うようにつけられている。少し斜め上も狙うことができるが、これだけくっついてきた相手には向けられないらしい。それで、小銃で撃つなどということをしているのだ。とりあえず、浮珠を納めている、絹室に当たらなければいいのだが。

 何を狙っているのか、とにかく撃てということになったのかも知れない。敵弾はあちこちに命中している。弾が当たるたびに、この艇の何かが壊れたり、曲がったり、穴が開いたりしている。絹室や機関室、各自の席を除き、防弾板なんて張ってないから壊したい放題だ。
「これは使えないんですか」
と、見ると、明石が信号銃を指さしている。俺は答えの代わりに、嫌だったが、上げ蓋の向こうに銃を突き出すと、概略相手のほうに向けて、引き金を絞った。しゅるしゅるしゅる、と太い煙の尾を引いて、信号弾が敵の鯨体まで飛んでゆき、そこであっけなく跳ね返って、ぽとりと落ちる。横から顔を出した(心臓だと思う)明石のほうを向いて、
「な」
と、言ってみた。と、明石が目をみはっているのに気が付く。俺もそっちを向いた。戦鯨の上げ蓋が大きく開いて、そこから何人かの兵士が、よってたかって重そうな円筒形の物体をこちらに向けている。
「ちょ、鳥…」
…鳥雷だ。艦内をえっちらおっちら、抱えて運んできたものだろう。鳥雷を人力で、こっちに向けて構えている。「…雷だ」と言いおえる間もなく、まだふわふわと残っている信号銃の桜色の煙を貫いて、まっしぐらに爆弾がこちらに向かって飛んできた。鍋底のような鳥雷の頭がどんどん大きくなる。俺は頭を抱えた。がつ、という衝撃。

「真島さん、真島さん」
と、急に静かになったことにびっくりして目を開けた俺は、まだ生きていることに気が付いてもう一回軽く驚いた。狭い上げ蓋から明石と橋元、二人ともが顔を出している。俺は、こわごわ目をあげた。

 そこにあったのは、鳥雷だった。観測台の周りにある手すりにぶつかった鳥雷が、尾からしゅうしゅうと炎を吐いたまま、そこに突き刺さっているのだ。なんだ、不発か。信管が働かなかったのか。
「最小駛走距離、というやつだと思います」
「あ、ああ、なるほど」
 艦隊行動をしていると、せっかく撃った鳥雷が、風の具合で自分や味方に当たることがある。そういうことが起きないように、発射後、ある程度時間が経ってからでないとぶつかっても爆発しないようにする、そういう仕組みのことだ。つまり、あまりにも至近距離だったので、信管が働かなかったらしい。勢いよく噴出しつづけている鳥雷の火箭は、防空艇を丸ごと敵戦鯨から雲の向こうに押しやっていた。厚い雲の向こうに、みるみる巨大な鯨体が消えてゆく。間遠になっていた銃声が、やがてすっかりやんだ。一分ほどそうしていた鳥雷は、そこで燃料を使い果たし、がくん、と手すりから外れて、空中に浮かんで、どこかに飛んでいった。

「えーと、だな」
 見回せば、いつのまにか艇の周囲の雲に、切れ目が見えるようになってきた。見通せる範囲の空には、一隻の戦鯨もなく、いくら待っても、それ以上何事も起きなかった。追いかけてもこない。もしかしたら、あっちも漂流していたのかもしれない。狭い操舵室からこちらを見上げて、何かを期待するように沈黙を守っている二人の部下に、俺は、こう続けた。
「これから浮珠を切って、不時着を試してみようと思う。今日は十分戦争したよ、俺たち」
 二人には、特に異論はないようだった。ふと、気づいたように明石が言う。
「『アリョール』は、どうなったでしょうね、真島さん」
「そうだな、どうなったろな」
「ごめんなさい。真島『少尉』でした」
 俺は腕組みをしてしまった。

 戦争は、もしかしたらこれで終わるかもしれない。少なくとも、空の戦いは。その想像はあまりにも甘美だったので、俺は無理やり目の前の問題に意識を引っ剥がしてこなければならなかった。現在高度七百米。眼下の地上はまだ遥かに遠く、漂流した浮船を着地させるのは、どうして、なかなか簡単な仕事ではないのだった。


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