寂しい宇宙

 ラーメンには何の関係もないのであるが、宇宙の話をしよう。初めてこの話を聞いたのは私が中学生くらいのときのことではないかと思うが、実はそれ以来ずっと「宇宙が膨張している」ということが、もう一つよくわからない気がしている。

 いや、遠くの銀河が我々から離れていっている、という理屈は、よくわかる。まず、遠くの銀河を観測して、その光をプリズムで分けると、スペクトルがわずかに赤の方向に偏移(移動)している。水素などの原子にはそれぞれ特徴的な波長の電磁波を吸収する性質があるので、そういう線の位置がずれているかどうかでそれがわかるのである。

 その光を出した銀河までの距離は、別の観測、たとえば明るさからわかるので、移動速度と距離を比較してみることができる。そうしてできたグラフを見ると、不思議やふしぎ、遠い銀河ほど速い速度で、我々から遠ざかっている。

 背景輻射や元素の存在比など、他にも証拠はあるが、これが膨張宇宙の一つの証拠とされている。これからわかるのは、昔、ある時点で宇宙がもっと小さくて、それがこのように膨張してきた、ということである。この膨張においてたまたま我々が中心である、というわけではない。よくある説明では、風船に星の絵を描いて膨らます場合と同じである。個々の星はお互いに離れてゆくし、ある星(の絵)からほかの星の絵を見たときに離れてゆく速度は、そこまでの距離に比例する。が、別にどこかの星が膨張の中心ということはない。

 さらにこの「ある時点で宇宙はもっと小さい」ということを突き詰めて考えると、むかし宇宙は一点に集まっていたということが言える。つまりこれが「ビッグバン」というやつで、この広く認められている説によれば、このバンが宇宙のはじまりだった、とされている。それ以前には宇宙の外側にはなにもなかった。というより、宇宙がその狭い中に限られていたのであって「外」という概念には意味がない。同様に「広がってゆく宇宙の外側」という問いにも、あまり意味がない。

 と、以上、よく知られている話をくどくどと書いたが、さあ、わからないのはここだ。人はいう。遠くの銀河が我々から離れていっているだけではなく、宇宙そのものが広がっているのだと。立っている床が、動く歩道のように、それも伸縮する動く歩道のように、広がっていて、銀河はそれに乗って動いているような感じだろうか。

 ところが、こういう話も聞くのである。このまま宇宙が膨張し続けるか、縮小に転じるかは、宇宙全体の中にある物質の量による。ボールを投げ上げたときのように、軽く投げ上げたボールはすぐ地上に落ちてくる。だんだんボールの速さを上げてゆくと、あるとき、ついに地球の重力圏を振り切って、ボールはかえってこなくなる。これと同じで「バン」の勢いと宇宙の中にある物質の質量、どっちが大きいかで、宇宙が膨張しつづけるか、途中で重力に引かれてみんな戻ってきて、宇宙が一点にふたたび収縮するかが決まるのである。

 本当か、と思うのはここだ。銀河は、広がってゆく宇宙の敷物の上に乗っているから遠ざかっているのではなかったろうか。広い体育館の中で自分から走って遠ざかってゆく友達、のような感じではないのだと理解していたのだが違ったか。重力で引かれて戻ってくるのは銀河だろうし、一点に収縮するのは銀河を構成していた物質で、その外側に広がった宇宙はひろがったまま、だだっぴろく残っているのではないか。それとも、宇宙という敷物自体が重力に引かれてくるくると丸まってしまうのだろうか。そういうこともあるかとも思うが、そのへんの説明を読んだことがないのである。

 最近の観測によれば、この「宇宙全体の質量」と「宇宙膨張の勢い」は、ちょうどつり合っていて、いつか収縮に転じるということはないらしい。それどころか、どういうわけか膨張速度が加速していて、収縮どころか宇宙はどんどん寂しいところになってゆく、という結果が得られているそうである。これが本当とすれば、収縮が物質だけなのか「宇宙」が収縮するのかという疑問自体、どうでもいいことなのかもしれない。もしかしたら。

 しかし、一番近い銀河を含めたすべてが遠ざかり、光速度の地平線の向こうに消えていった遠い未来、最終的にどうなるかということに、多少この疑問は関係するかもしれない。少なくともこの銀河くらいは、我々といっしょにいてくれるのか、それとも最後の分子一つまでばらばらになり、宇宙にばらまかれて、やがては私を構成していた素粒子一つが宇宙の真ん中にぽつんと残るのか。どのみち遠い未来のことで、これもどうでもいいことだと言えばそうだが、そういえば宇宙論とはそもそもそういうものではある。寂しい未来は、ちょっと怖い。


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